ダンテ・アリギエーリ

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ダンテ・アリギエーリDante Alighieri1265年5月18日 - 1321年9月14日)は、イタリア都市国家フィレンツェ出身の詩人哲学者政治家。世界史上で最も偉大な詩人の一人で「神曲」の作者として有名である。

生涯[編集]

イタリアのフィレンツェ貴族の出身。ボローニャ大学で修辞学を学んだ後、混迷するイタリアにおいて教皇党を支持した積極的な政治活動を行う。その一方でフィレンツェ方言で精神的美徳としての愛を謳う清新体派の詩人達と交友を持ち、彼自身も幼き頃からの恋人ベアトリーチェに対する想いを詩に託した。1290年、ベアトリーチェが没した事に衝撃を受けたダンテは彼女への純粋な愛を清新体で表現した詩集「新生」を書き、これがその生涯における初期の代表作となる。

政治家としてはフィレンツェ政府の公職を歴任し、一時は最高官職の一人に選ばれ同市の教皇党内部の抗争解決に尽力したが、1300年に外交使節としてローマに赴き、フィレンツェを留守にした間に政変が発生し、かつてダンテが追放した勢力が政権を奪取した。1301年にはフィレンツェに戻れば死刑にするという条件つきでフィレンツェを終身追放の刑に処された。

このため、フィレンツェ以外の北イタリアの諸都市やフランスパリで亡命生活を送り、ラテン語で「俗語論」や「饗宴」を執筆してイタリア語詩やアリストテレスの研究を進め、1307年に生涯最大の大作と言われる「神曲」の執筆を開始する。政治思想も皇帝党支持に転向し皇帝支持によるヨーロッパ統一を期待した。

1310年ハインリヒ7世がイタリア遠征を行なうと、ダンテは皇帝を積極的に支持してイタリアの有力者に皇帝支持を訴えた。そして自らも「帝政論」を執筆し、神聖ローマ帝国の正統性を主張したが、1313年にハインリヒ7世が客死したため実現せずに終わった。

1316年、フィレンツェ政府から贖罪を条件に帰国を許されるが、ダンテは拒絶する。こうして終生、フィレンツェに戻ることは無かった。晩年は「水陸論」「牧歌」を執筆する。そして奇しくも「神曲」が完成した直後の1321年に死去した。56歳没。

墓所はラヴェンナにある。後年、ダンテの大詩人としての名声が高まるとダンテを追放したフィレンツェは遺体の返還を懇願し続けたが、拒否されている。

著作[編集]

  • 新生La Vita Nuova 1293年頃
ソネット25篇、カンツォーネ5篇、バッラータ1篇の合計31篇の詩(数え方には異同あり)から成る詩文集。ベアトリーチェの夭逝という悲報を聞いて惑乱したダンテが、生前のベアトリーチェを賛美した詩などをまとめたもの。
  • 神曲La Divina Commedia 1307年頃 - 1321年
ダンテを代表する叙事詩。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部構成から成る。ダンテ自身が生身のまま彼岸の世界を遍歴していき、地獄煉獄天国の三界を巡るという内容である。
  • 『饗宴』Il Convivio 1304年 - 1307年
序章と14篇のカンツォーネおよび注釈から成る全15巻の大作として構想されたが、第4巻で中断した。ダンテの倫理観が込められた「知識の饗宴」は、当時の百科全書として編まれたとされる。
  • 俗語論De Vulgari Eloquentia 1304年 - 1307年
ダンテの母語イタリア語について考察したラテン語論文。言語問題を取り上げ、規範的な「文語」と流動的な「俗語」を区別した。イタリア語の方言の中から文語の高みにまで達しうるものを捜し求め、トスカナ地方の方言をその候補とする。
 黒田正利訳『世界大思想全集 哲学・文芸思想篇4』河出書房新社、1961年(昭和36年)所収
  • 『帝政論』De Monarchia 1310年 - 1313年?
全3巻。ダンテ自身の政治理念をあらわしたもので、皇帝の正義や宗教的権威の分離などについて説く。
 中山昌樹訳『ダンテ全集 第8巻』 新生堂、1925年(大正14年)所収(国立国会図書館デジタルコレクション)
 黒田正利 訳『世界大思想全集 哲学・文芸思想篇4』河出書房新社、1961年(昭和36年)所収
 小林公訳『帝政論』中公文庫、2018年(平成30年) 

外部リンク[編集]