コフィー・アナン
コフィー・アッタ・アナン(Kofi Atta Annan、1938年4月8日 - 2018年8月18日)は、第7代国際連合事務総長(1997年1月から2006年12月)。ガーナ共和国アシャンティ州クマシ出身。称号は聖マイケル・聖ジョージ勲章(GCMG)。英語、フランス語、クル語 (Kru)、アカン語 (Akan)、他のアフリカ諸言語を話す。国連事務総長在任中の2001年にノーベル平和賞を受賞した。
経歴[編集]
西アフリカのガーナで有力者の家庭に生まれる。ガーナがイギリスから独立した1957年に高校を卒業し、スイスのジュネーブやアメリカに留学する。
1962年に国連の採用試験を経て世界保健機関(WHO)に入り、国連事務局入りし、国連平和維持活動(PKO)担当事務次長や旧ユーゴスラビア担当国連特別代表など国連の人事、総務畑を務めた後の1997年に国連事務総長に就任する。
事務総長の任期中は地球温暖化防止のための京都議定書採択や核兵器廃絶への明確な約束をうたった核拡散防止条約(NPT)再検討会議(2000年)など、国連の枠組の中で大きな多国間外交の成果を挙げた。貧困撲滅やエイズの蔓延防止、女性の地位向上などをうたった国連ミレニアム開発目標(MDGs)を掲げ、発展途上国が抱える課題克服を目指した。国際社会の変化を反映した形に安全保障理事会を改革する必要があるとの立場をとり、日本の常任理事国入りも支持したりした。2001年にはアフリカ出身の事務総長として弱者や人権に重きを置く国連の基礎的な価値観を重視し、グローバル化の中で国連を軸にした協調外交を進めた点が評価されてノーベル平和賞を受賞する。
2001年のアメリカ同時多発テロのため、イラクへの武力攻撃に突き進もうとした際の2002年には安全保障理事会の大量破壊兵器査察、廃棄決議の全会一致にこだわり、当時唯一のアラブ国家の非常任理事国であるシリアを説得したりした。2003年から開始されたアメリカ主導のイラク戦争には一貫して反対の立場を貫いた。
2006年に国連事務総長を退任する。だが、退任前には国連の対イラク人道支援事業をめぐる汚職疑惑への長男の関与が取り沙汰されたりしている。
退任後は財団を設立し、貧困対策などに取り組んだ。イスラム教徒少数民族ロヒンギャの迫害問題の和解に向けて、ミャンマー政府が設けた諮問委員会の委員長を務めたり、内戦状態が続くシリア問題に関する国連とアラブ連盟の合同特使に抜擢されたりしている。
2018年8月18日、スイスで死去した。80歳没。
人物[編集]
- 政治家や外交官ではなく、一線の国連職員から初めてトップに上り詰めた叩き上げであり、そのため国連職員の信頼は厚かったという。
- 高校時代の恩師に「誰かがどこかで苦しんでいる。それは人事ではない」という言葉を教えられ、それを行動で常に実践した。