しゃむ姫
しゃむ姫(しゃむひめ、文禄2年(1593年) - 寛文2年(1662年))は、江戸時代前期の女性。下野国黒羽藩の第2代藩主・大関政増の正室。徳川家康の落胤といわれる女性である。
生涯[編集]
名に関しては「しゃむ」「しゃん」などと記録されている。現在では片仮名で「シャム姫」「シャン姫」とも書かれている。当時としては変わった名前で、漢字ではどのように書くのか記録が無いのでわからない。
彼女については生まれから疑問視せざるを得ないことが多い。父は家康だが、母親は伯母の矢矧の方であるという。家康の伯母ならば、当時としてはかなりの高齢で、家康自身も数えで52歳の高齢であり、子供をなす年齢とは考えにくい。矢矧の方については誰のことを指しているのか今一つわからないが、家康の生母である於大の方の姉(あるいは妹?)とする説があり、於大は当時60代半ばなのでその姉妹なら50歳は迎えていた可能性が高く、その上でも子を成す年齢とは考えにくい。文禄2年(1593年)の家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に同道し、肥前国名護屋城に赴いてその年はそこで越年までしている。そのため、しゃむ姫の生まれた場所は肥前名護屋の可能性が極めて高い。なおこの際、家康は名護屋に愛妾の三井氏(おむす)を同道しており、三井氏は妊娠していて臨月間近まで迎えており、名護屋に到着すると難産の末に母子もろとも死去したという。ただ、家康が愛妾とはいえ出産間近の女性を陣中に連れていくのか疑問視されるし、もしかするとこの際に母子もろとも死んだとされているが、実は子供は生き残って家康が家臣に引き取らせた可能性がある。
しゃむ姫は大関氏の家譜では「室、水野出雲守源重仲の養女」とされているが、その後にわざわざ但し書きで「実は、東照神君之御娘しやむ姫君と云う」と記録されているのである。家康の落胤説はここから来ている。
水野重仲は家康の生母・於大の方の甥であり、家康にとっては従弟に当たり、家康が子女を預けることができる人物としては最適である。しやむ姫は水野氏の家中で養育されて成長し、慶長10年(1605年)から慶長14年(1609年)までの間に下野国黒羽藩主・大関政増に正室として嫁いだ。この際に家康から嫁入り道具として国光作の葵紋入りの短刀、葵紋付きの銀の銚子、葵御紋付きの屏風を、さらに徳川秀忠から葵御紋付の茶碗をそれぞれ送られている。この異常な厚遇ぶりが、落胤説を強める一因になっている。
政増との間には1男2女に恵まれ、長男は高増と名乗ったが、これは戦国時代に武名を馳せた大関氏の大関高増にあやかったものである。なお、家康はしゃむ姫が初産の時に安産の祈祷をさせたり、葵紋入りの産着を送っている。
しかし、しゃむ姫の幸せは短かった。元和2年(1616年)に夫の政増、次いで父の家康も死去。以後のしゃむ姫は長松院と号して尼となり、信仰に支えられて生きることを選びながら、跡を継いだ高増を補佐した。しかし、その高増も正保3年(1646年)に自身に先立ち、跡を継いだ孫の増親を助けながらなおも生き抜くも、その増親も寛文2年(1662年)に死去し、自身も同年に70歳で死去している。
死に臨んで、夫の墓所である黒羽の大雄院に葬られることを望み、同寺には葵染付の茶碗や膳、尼姿のしゃむ姫の座像などが残され、さらに家康から送られたという阿弥陀様が西教寺に伝わっている。