高田治忠
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高田 治忠(たかだ はるただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。羽柴氏、後に豊臣氏の家臣。丹波上林城主で1万石の大名である[1]。
略歴[編集]
近江出身とされ、最初は織田信長の4男で羽柴秀吉の養子になった羽柴秀勝に仕えた。天正10年(1582年)6月の山崎の戦いに参加し、天正11年(1583年)には伊勢で滝川一益軍と戦って大きな軍功を挙げたという。天正13年(1585年)に秀勝が死去したため、秀吉の家臣となる。秀吉の朝鮮出兵では朝鮮半島に渡海し、晋州城の戦いに参加した[1]。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が死去した際、盛光の刀を与えられた。また、丹波上林(現在の京都府綾部市)に時期不明だが、秀吉から1万石を与えられて大名となっている[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、藤懸永勝と共に大坂の高麗橋を守備。さらに東軍に属した諸大名の人質を逃亡するのを監視する役目を務めた。その後、丹後に赴いて細川幽斎が守備する田辺城攻撃に参加した(田辺城の戦い)[1]。
西軍が壊滅した後、高田は改易に処され、その後の行方は不明となっている[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]