関ヶ原御合戦記
関ヶ原御合戦記(せきがはらごかっせんき)とは、関ヶ原の戦いに関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は竹中時氏。成立年は「宝永三年丙戌孟秋」とあることから、1706年秋ということになる。
ただ、この竹中時氏という人物が非常に怪しい。というのは、著者は竹中重矩が序文を記したといい、時氏はその家臣であるというのである。重矩とは織田信長や羽柴秀吉に仕えて著名な参謀・竹中半兵衛重治の弟であるが、信長が本能寺の変で横死した際に美濃国不破郡で一揆のために戦死している。だから、時代が全く合わないのである。そもそも、時氏という人物が江戸時代に確認できない。
竹中重治の叔父・竹中重光の次男・竹中重定の家系に竹中定矩という人物がいる。定矩は養子で、実父は松平信平なので竹中氏と血縁関係は無い(ただし竹中重富の娘を妻とした婿養子)。定矩は家督を継承した後の改名で、養子になった時点の初名は「重教」だった。つまり「重教」を「重矩」と誤った可能性がある。ちなみに、宝永3年時点で定矩は18歳であり、序文を書いたとしてもおかしくない年齢である。
なお、時氏については『関ヶ原御合戦抜粋』という作品も著していることがわかっているが、その経歴についてはわかっていない。一説に時氏は誤りで、竹中重治・重門父子の末裔に当たる竹中重栄のことではないかとする説がある。
別称は『関ヶ原御合戦物語』(せきがはらごかっせんものがたり)。
内容[編集]
慶長5年(1600年)9月13日に徳川家康が落城した岐阜城を見て、翌9月14日に安八郡八条村の瑞雲寺に着いた時、大きな柿を献上されて、「大柿(大垣)が手に入ると喜んだ家康が寺領を与えた」とするところから話が始まる。東西両軍の陣所の場所、関ヶ原本戦の経緯などを書いている。ただ、竹中氏は美濃国の領主だったためか、南宮山や松尾山など、関ヶ原周辺の旧跡を実地調査してその地勢を記し、考証なども加えている。
なお、関ヶ原本戦で敗走した小西行長を捕縛したのは竹中重門である。竹中一門のこの功名は当然のように描かれており、行長の佩刀である光忠を奪ったことも書かれている。