董昭
董 昭(とう しょう、156年 - 236年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の武将。字は公仁(こうじん)[1]。子は董冑。弟は董訪。
生涯[編集]
兗州済陰郡定陶県の出身[1]。孝廉に挙げられて最初は袁紹に参軍事として仕えた[2][1]。界橋の戦いで袁紹が公孫瓚と戦った際には鉅鹿郡平定で活躍する[1]。その功績により鉅鹿郡太守、魏郡太守になる[2]。
ところが弟の董訪が張邈の部下だったため、張邈と不仲になった袁紹は讒言を容れて董昭を殺そうとした[1]。董昭は献帝の下に行こうとしたが、河内郡の張揚に引き止められた。後に曹操が献帝を擁立して西進して来た際に曹操に帰順した[1]。
董昭は曹操に対して許昌への遷都を宣言し、鳥丸討伐では軍需物資の補給のため運河を掘って海に輸送路を通じさせることを献策するなどした功績により千秋亭侯に封じられる[1]。曹操に対して魏公・魏王に上る事や九錫を賜わる事を上奏するなど、魏の成立に大きく貢献した[1]。219年に劉備配下の関羽が北上を開始した際には関羽を破る策を献策するなど、政治や軍事の両面で大きく功績を立てた[1]。このため、文帝の時代になると領地は1000戸を与えられ、衛尉へ昇進する[1]。文帝の時代には呉の討伐で検索を繰り返した[1]。
文帝崩御後は明帝に仕え、司徒の本官となり、風俗の弊害について上奏して法を徹底させた[1]。
236年に死去。81歳の高齢だった。
『三国志演義』では第14回で初登場するが、眉目秀麗で生気に満ちた顔とルックスの良さが強調されているなど[1]、史実のような参謀ぶり、政治臭さが見られない。それどころか菜食主義者とされ、飢饉でも健康体だったとされている[1]。なぜこのような人物として描かれたのは不明としか言いようがなく、考えられるとしたら当時としては珍しい長寿だったためだろうか[1]。以後もほとんど出番はなく、曹操が魏公となり九錫を賜わる時と、関羽との戦いでの登場しかない[1]。