張揚
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張 揚(ちょう よう、? - 198年)は、中国の後漢末期の武将・政治家・群雄。字は稚叔(がしゅく)[1]。張楊とする記録もある。
生涯[編集]
并州雲中郡[1](現在のモンゴル自治区にあるフフホト)の出身。最初は呂布や張遼と共に丁原の配下となる[1]。丁原が何進の命令で上洛して呂布に殺害された際、張揚は故郷で募兵を担当していたがそのまま上党に留まって群雄となる[1]。董卓討伐の連合軍が挙兵すると張揚は袁紹に従って参加する[1]。しかしこの後、張揚は董卓から河内郡太守として任命された[1]。
192年4月に董卓が呂布によって暗殺され、その呂布が長安を追われた際、張揚は同郷の誼で呂布を庇護した[1]。長安から献帝が脱出した際には保護したため、献帝から大司馬に任命される[1]。198年に徐州の呂布が曹操に攻められた際には旧友の誼から呂布を助けるために曹操領との国境に兵を進めて支援を試みるが、それに反対した部下の楊醜により暗殺された[1]。
張揚没後に楊醜は眭固によって報復で殺され、眭固がその跡を継いだ[2]。
『三国志演義』ではほぼ史実通りに登場する。