肝付城

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肝付城(きもつきじょう)とは、現在の鹿児島県肝属郡肝付町本城にかつて存在した日本である。別名を高山城(こうやまじょう)という。

概要[編集]

この城は高山バスセンターの南東およそ5キロ、高山川の右岸に張り出した尾根の突端にあった山城である。この城は大隅で勢力を振るった肝付氏の居城であった。

肝付氏は家伝によると天智天皇皇子大友皇子から数えて9代目の伴兼行平安時代中期の安和元年(968年)に薩摩を与えられ、それから2代を経た伴兼貞の時代である長元9年(1036年)に大隅国肝属、日向国三股院を与えられて支配するようになり、次代である兼俊の時に肝付を姓として称し、さらに高山城を居城にしたとされている。

南北朝時代の当主・肝付兼重志布志郡松尾城主・楡井頼仲と共に九州南部に割拠する南朝の有力な勇将として名を高めている。兼重は建武2年(1335年)に後醍醐天皇の詔を奉じて九州で暴れまわった。

戦国時代になると肝付兼続河内守)が現れ、彼も勇将として南九州で割拠し、一時期は日向や薩摩にも勢力を拡大し、島津氏をも圧倒する勢力を築き上げた。しかし永禄8年(1566年)、島津貴久の反攻を受けて自殺し、これにより肝付氏は急速に衰退を余儀なくされる。結局、兼続から3代を経た息子の兼護の時代である天正2年(1574年)に島津義久の攻撃を受けて肝付城は落城し、これにより大名としての肝付氏は滅亡することになった。

現在、肝付城跡は雑木林と畑地になっているが、西を高山川、南と北はその支流によって囲まれているという天然の要害であり、2の丸跡、3の丸跡、大手門跡、桝形跡などが地形の上から推察されている。国指定の史跡となっている。

アクセス[編集]

  • 笠之原I.Cから車で30分。

外部リンク[編集]