織田信次 (戦国武将)
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織田 信次(おだ のぶつぐ、? - 天正2年9月29日(1574年10月13日))は、尾張国出身の戦国武将。孫十郎とも。官位は右衛門尉を名乗った。父は織田信定、母は織田良頼の娘。織田信秀の弟であり、織田信長の叔父にあたる。津田姓を称していた。子に孫十郎。
略歴[編集]
織田信定の5男で、信長の叔父にあたる。弘治元年6月26日(1555年7月14日)、領内の松川の渡しで川狩り中に家臣の洲賀才蔵が信長の弟・織田秀孝(彦六郎)を矢で誤殺してしまうという事件を起こしたため、信次は信長の怒りを恐れて逐電した。この際、織田信行から信次の居城・守山城は焼き払われたが、信長は無用心に近づいた秀孝にも非はあるとして信次を咎めず、信次の後任として信長から守山城主に任命されていた織田信時が家臣に殺されると、信長から復帰を許されて守山城主に再任した。
その後は信長の一門衆として忠実に従い、天正2年(1574年)の信長による伊勢国長島一向一揆攻めにおいて織田信忠の配下として参加し、篠橋城を攻めている。そして一向宗徒が長島から退散する際に、信長の命令で退散する一向宗に一斉射撃が開始されると、激怒した一向宗徒の反攻を受けて戦死した。