福留親政
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福留 親政(ふくどめ ちかまさ、? - 天正5年3月9日(1577年3月28日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。受領名は飛騨守。子に儀重[1]。
略歴[編集]
福留家は祖父・福留房照の時代から長宗我部家に仕えた家臣で、親政は長宗我部国親の時代から長宗我部家に仕えた。永禄元年(1558年)の岡豊城周辺での戦い、永禄6年(1563年)の安芸国虎の岡豊城侵攻戦でいずれも武功を立て、「福留の荒切り」とまで称されるほどの武勇を誇ったといわれる。智勇に優れ、国親の死後は元親に仕えて、多くの戦功により確認できるだけで21回も感状を授けられるほどだった。諱も元親から偏諱を授けられて親政と称し、長宗我部家の家紋である七鳩酢草から1つを減らした6つの鳩酢草を使用することを許されるほどだった。所領も長岡郡田辺島城主、土佐郡泰泉寺城主など複数の城を与えられ、長宗我部家の重臣として重きをなした[1][2]。
元親が四国制圧を目指すとそれに参戦し、伊予国攻めに参加した天正5年(1577年)3月9日、戦陣の先駆けを担当した際に戦死したという。家督は子の儀重が継承した。遺骸は田辺島の山上に葬られた[2]。