皆川広照室 (北条氏政養女)
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皆川広照室(みながわうじてるしつ、生没年不詳)は、戦国時代の女性。下野国皆川城主・皆川広照の妻[1]。
生涯[編集]
宣綱は叔母の寿桂尼が今川氏親の正室だった関係から今川氏を頼って駿河国に居住していたが、永禄11年(1568年)12月の武田信玄の駿河侵攻で氏真が没落した際に付き従って遠江国掛川城に落ち延びるも、そこで永禄12年(1569年)に陣没した。氏真はやがて徳川家康と北条氏康の和睦交渉によって身柄を氏康に引き取られるが、その際に中御門家の一族も氏真と共に氏康を頼っている(『異本小田原記』)。
娘のその後の行方については不明だが、下野の国衆だった皆川広照が天正14年(1586年)5月に家康の仲介により北条氏政に従属したので、天正15年(1587年)に氏政の養女となって広照に嫁いだという。今川氏真は氏康の死後、信玄と氏政の間で甲相同盟が成立したのに伴って家康を頼っていることから、宣綱の娘が氏政にそのまま庇護されていたのか、それとも家康に引き取られていたのかは不明である[1][2]。
皆川氏の系図では、広照の嫡子である皆川隆庸の母はこの宣綱の娘とされているが、隆庸は天正9年(1581年)生まれなので全く合致しないため、恐らく彼女の養子になった可能性がある。その後の経歴などは不詳である[2]。