町田久倍
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町田 久倍(まちだ ひさます、? - 慶長15年(1610年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣[1]。
略歴[編集]
父は町田久徳。通称は助太郎。受領名は伊賀守、出羽守。号は一玄、存松。島津家庶流の町田家を出自とし、伊集院の石谷を領有した[1]。
島津家に仕えて、永禄11年(1568年)の菱刈攻めで軍功を挙げ、市山を与えられた。その後、伊集院の地頭に任じられる[1]。
以後、耳川の戦い、肥後国八代在陣、豊薩合戦などでいずれも参加して武功を立てる。天正20年(1592年)に島津歳久を討つように豊臣秀吉からの命令が来た際には、久倍が歳久追討の討手となった。その後、島津家の老中となって豊臣政権の取次となる。この取次は江戸幕府成立後も変わらなかったらしく、慶長14年(1609年)に島津忠恒が琉球王国を攻める際には、自らが東上して徳川家康・徳川秀忠に御目見して交渉に当たっている。その翌年に明石において没した[1]。