沢本頼雄
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沢本 頼雄 さわもと よりお | |||||||||||||||||||||
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沢本 頼雄(さわもと よりお、1886年(明治19年)11月15日 - 1965年(昭和40年)6月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。
経歴[編集]
山口県出身。海兵36期。同期生から「お前の顔を見ると法令集に見える」と言われるほど規則や法規に詳しかったといわれる[1]。
昭和16年(1941年)4月、第2次近衛文麿内閣の商工大臣に転じた豊田貞次郎の後任として、海軍次官に就任する。10月に近衛文麿が退陣し、東条英機が内閣を組閣すると、海軍が海相に推した豊田副武を東条が拒否した際、沢本は東条内閣を軍部大臣現役武官制を逆用して組閣を流産に追い込もうと考えていたと伝えられる。しかし実現には移されず、豊田の代わりには嶋田繁太郎が就任した[1]。
沢本は日米開戦に強硬に反対し、海相の嶋田に対しても避戦を訴えた。沢本はさらに日本のアメリカに対する先制攻撃に対しても、「アメリカの国情として議会にも諮らず戦争することなどあり得ない」と述べて、せめて先制攻撃は止めるように訴えたという。しかし嶋田は聞き入れないばかりか、「次官がいくら保証しても何の役にも立たない」と述べる始末だった[1]。
3年間にわたって海軍次官を務め、戦後は日米開戦に反対の態度を示していたことから戦犯としての逮捕を免れている。なお、日米開戦前に陸軍省や海軍省を通じて政策担当のポストにあった人物の中で逮捕されていないのは、沢本だけである[1]。
昭和40年(1965年)6月29日に死去した[1]。享年80(満78)。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]