沖縄戦
沖縄戦(おきなわせん、英:Battle of Okinawa)とは、1945年3月26日から6月23日まで行われた、沖縄本島とその周辺海域での大日本帝国とアメリカの戦闘である。この戦いは日米両軍に大きな被害を出した。太平洋戦争における地上戦の最終局面に相当し、「近代史上最悪の戦い」とも言われている。犠牲者は3ヶ月で25万人に登り、両軍ともに最高死傷率を記録した。
その驚異的な損害ゆえにアメリカが日本に原子爆弾を落とす気になったとされている。
10万人以上の日本兵、15万人以上の沖縄県民、1万4千人の米兵が死亡したとされている。これは当時の沖縄県民の4人に1人が死亡したことになる。
沖縄戦の前[編集]
昭和19年(1944年)7月にサイパン島の日本軍が全滅して、太平洋戦争における日本軍の敗戦はほぼ確実となり、アメリカ軍による沖縄侵攻も必至とみられるようになる。そのため同月、九州と台湾島民の老幼婦女子など10万人の疎開が計画され、8月21日に鹿児島県に向けて那覇港を出港した。この学童疎開対馬丸はアメリカ合衆国潜水艦の攻撃を受けて一瞬のうちに沈没し、約1700名の疎開者の内、700名の学童が死去する悲劇となってしまった(対馬丸事件)。これは沖縄戦の悲劇の序章であり、10月10日には沖縄全土がアメリカ軍機1400機余による空襲を受け、特に那覇市はこれによりほとんど焼失する被害を受けてしまった。
地上[編集]
上陸作戦の規模は第二次世界大戦で最大規模とかノルマンディー上陸作戦を上回ったとか言われている。
4月1日に上陸した際、予想されていた日本軍の抵抗は全く無かったため、上陸した米兵はエイプリルフールのジョークかと思ったんだとか。これは牛島満の作戦と評され、米軍を内陸部に引き込んで消耗戦を展開する事が目的だったと言われている。
地上戦では5月12日から18日にかけて行われたシュガーローフの戦いが特に激戦となり、6日間だけで死傷者2662名・戦闘疲労患者1289名の損害がアメリカ側に出た模様。日本軍側の損害は日本軍側も米軍側も記録していなかったのか不明とされているが、数千人程度と推定されている。
沖縄の住民は日本軍に招集されて斬り込みに使われたり、住民に変装した日本軍と疑われて米軍から攻撃される事もあった。
6月23日に南西諸島を防衛する第32軍の司令官であった陸軍中将・牛島満らが自決したことにより、日本軍の組織的な戦闘は終わったとされている。ただし、その後も局地的な戦闘は続き、現地の日本軍の部隊が降伏調印したのは本土が降伏した後の9月7日であった。
犠牲者の数は日米双方を合わせて20万人を超えており、そのうち沖縄の一般住民の数は推計だが9万4000人を数えると見られている。
なお、6月13日に現在の沖縄県豊美城市の旧司令部壕で自決した大田実が、自決直前の6月6日に沖縄の住民への以後の特別な配慮を訴える電文「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と日本海軍次官に対して打電したことは有名である。
沖縄戦では、日本軍も住民の虐殺に加担した。投降しようとした一般人を撃ったとの証言もある。一方で、米軍も日本側の女性を凌辱したとされる。
海上[編集]
海上のアメリカ艦艇は日本軍機の連日に渡る特別攻撃により、34隻が沈没、368隻が損傷、9,000人以上の犠牲者を出し、「死の海」と化した。
活躍した戦術・兵器など[編集]
- 地面の下に陣地を構築する事で、アメリカ軍からの艦砲射撃や空襲に対抗した。
- 日本軍陣地の最上部からガソリンを流し込んで中の人を皆殺しにするのがアメリカ軍の戦術だったと言われている。
- 日本軍陣地の最上部に登った米兵に対して、別の日本軍陣地から集中攻撃する戦法。「トーチ&バーナー戦術」への対抗手段だった。
参考動画[編集]
- アメリカの視点での動画
- 日本の視点での動画
題材作品[編集]
- 映画
- ハクソー・リッジ
関連項目[編集]
- ブローニングM1918自動小銃 - 動画中に「BAR」と呼ばれている小銃
- 沖縄県