江口正吉
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江口 正吉(えぐち まさよし、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は三郎右衛門[1]。丹羽長秀・長重父子、結城秀康に仕えた[1]。
生涯[編集]
近江の出身[1]。丹羽長秀に仕えた時期は不明だが、天正10年(1582年)には既に仕えていたようである。本能寺の変後の清須会議による合議体制の下で丹羽長秀配下の京都奉行に任命される(『丹羽家譜』)。しかし実際は羽柴秀吉が実権を掌握していたためか、政務を行なった形跡は見られない。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは丹羽長秀に従って出陣した(『太閤記』)。賤ヶ岳の戦いの後、長秀が秀吉により越前に加増移封されると、越前国内で7600石を与えられ、後に若狭に領地を移された[1]。
天正13年(1585年)に長秀が死去し、嫡子の長重が跡を継ぐとなおも丹羽氏に仕える[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、東軍に属した前田利長と加賀浅井畷の戦いで大いに破る功績を挙げた(『老人雑話』)。しかし西軍が敗れたため、戦後に長重は改易となり、正吉は徳川家康の次男で越前福井藩主に封じられた結城秀康に仕え、1万石の所領を与えられた(『老人雑話』)。
慶長8年(1603年)に死去したとされるが[1]、異説も多い。才能や武勇に優れた人物と『老人雑話』では紹介されている。