楊奉
楊 奉(よう ほう、? - 197年)は、中国の後漢末期の武将。
経歴[編集]
元々は黄巾党の一派である河東郡(現山西省南部)の白波賊の頭目であった。後に仕官して李傕に仕えた。ところが李傕が郭汜と争い始めると、その政局の混乱から軍吏の宋果と協力して李傕の暗殺を謀ったが失敗したため、李傕の下を離れて反乱を起こして独立勢力となった。李傕と郭汜が和解すると、献帝によって興義将軍に任命され、楊定・董承・郭汜と共に献帝を護衛してかつての旧都・洛陽に向かう。ところが途中で郭汜が心変わりして献帝を奪おうとしたため、楊定と協力して郭汜を撃退する。しかし郭汜は李傕と手を結んで再度追撃してきたので、楊奉は敗北してしまう。そこで旧知の白波賊の仲間であった韓暹・李楽・胡才を味方につけて再度、郭汜・李傕連合軍と戦ってこれを撃退した。
だが、郭汜・李傕連合軍はあきらめず再度追撃し、楊奉らは大敗して郭汜・李傕連合軍と和睦せざるを得なくなる。献帝はこうしてようやく洛陽に戻ることができ、楊奉はその功績によって車騎将軍に任命された。ところが洛陽で、今度は韓暹・張楊・董承らが互いに争うようになり、これを見た議郎の董昭は楊奉を騙す形で曹操を鎮東将軍に任命して洛陽に介入させようとした。曹操は楊奉に会って騙す形で献帝を洛陽から自分の本拠地である許昌に移そうとしたので、慌てて楊奉は韓暹と共に曹操の許昌移動を妨害しようとしたが、曹操の伏兵攻撃にあって大敗を喫した。さらに楊奉の本拠地であった梁までもが曹操に攻略された上、楊奉の腹心であった徐晃までもが曹操に帰順したので、進退窮まった楊奉は淮南の袁術を頼って身を寄せた。
197年、袁術が徐州の呂布と敵対し、大軍をもって呂布を攻撃した際、楊奉もこの戦役に参加した。この戦役の際、当時は呂布の部下であった沛国の相である陳珪の説得に応じて韓暹と共に呂布に寝返り、袁術軍大敗の原因を作った。
その後、楊奉は韓暹と共に海西(揚州・徐州の境目)周辺に駐屯した。しかしこの際、楊奉は徐州や揚州周辺で略奪を繰り返して荒らし回っていた。そして同年、呂布の襲撃を受けて海西に逃れてきた徐州牧の劉備におびき出され、会見の席上において謀殺された。
三国志演義[編集]
『三国志演義』では李傕配下の騎都尉として登場する。史実通り李傕に対して反乱を起こすが、事前に計画が漏れて落ち延びている。後に弘農に逃れる献帝の警護をするが、曹操が献帝を迎えると曹操と対立して戦いを仕掛ける。しかし徐晃の裏切りにより敗れて袁術を頼る。袁術の配下では呂布討伐の7軍の将として参戦するが、陳登の説得を受けて韓暹と共に呂布に寝返り、袁術軍を大敗させる原因を作り出した。その功績により、楊奉は呂布の配下として徐州南方に駐屯することになるが、その後に酷い略奪を繰り返したので劉備によって韓暹と共に宴席に招かれた際、関羽と張飛によって誅殺され、その首級は曹操の下に送られることになった。
人物像[編集]
董昭は楊奉のことを「勇猛であるが思慮が浅い人物」と評している。