木曽川の戦い
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木曽川の戦い | |
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戦争: 木曽川の戦い | |
年月日: 永禄3年6月・8月 | |
場所: 日本・木曽川(愛知県・岐阜県境) | |
結果: 斎藤軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田氏 | 斎藤氏 |
指揮官 | |
織田信長 | 斎藤義龍 |
戦力 | |
1000 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
木曽川の戦い(きそがわのたたかい)とは、永禄3年(1560年)6月と8月に発生した織田信長軍と斎藤義龍軍の戦いである。
概要[編集]
永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで駿河国の戦国大名・今川義元を破って討ち取り、勢いにのる信長はそのまま美濃に侵攻した。
美濃の斎藤家とは、織田家の先代・織田信秀と斎藤家の先代・斎藤道三との間で和議が成立し、その条件として信長の正室に道三の娘・濃姫が嫁いでいた。しかし、道三は弘治2年(1556年)4月に長良川の戦いで反乱を起こした嫡子の義龍に敗れて殺された。この際、道三を支持していた信長は、『信長公記』によると道三の美濃を譲るという遺言もあったとして義龍と敵対。以後、両者は互いに争っていた。
『総見記』によると、信長は桶狭間の勝利で勢いそのまま、美濃に2度にわたって侵攻した。織田軍の兵力はわずか1000人だったという。しかし、木曽川を渡る前に惨めな敗戦にいずれも終わったとされ、さらに戦後には義龍により逆に尾張国内を攪乱されたという。
ただ、『総見記』は余り信頼性の高い史料では無いので、兵力に関してもそうであるが、余り信頼はできないとされる。
参考文献[編集]
- 『総見記』
- 『信長公記』