根市寛貴
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 青森県三戸郡名川町(現・南部町) |
生年月日 | 1982年10月21日(42歳) |
身長 体重 | 177 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2000年 ドラフト4位 |
根市寛貴 | |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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根市 寛貴(ねいち ひろたか、1982年10月21日 - )は、青森県出身の元プロ野球選手(投手)。2000年のドラフト会議を大きく騒がせた人物だが、一軍出場すらすることはなく引退した。
来歴・人物[編集]
光星学院高校3年時の2000年、夏の甲子園に出場。2回戦10-8丹原、3回戦4-3九州学院、準々決勝戦2-1樟南と勝ち進み、青森県勢として1969年三沢高校以来のベスト4に進出。準決勝で、優勝した智弁和歌山に5-7と敗退、惜しくも決勝戦進出はならなかった。大会中は背番号「3」で投手兼外野手を務めており、打順は5番、準々決勝以外はリリーフでの登板だった。大会最速の146km/hを記録した。
同2000年のドラフト会議で読売ジャイアンツに4位指名を受け、入団。2004年、三澤興一とのトレードで大阪近鉄バファローズに移籍。
2004年オフ、近鉄から戦力外通告を受け一旦は自由契約となるが、同年新設された東北楽天ゴールデンイーグルスと再契約して実質移籍。楽天創設時の唯一の東北出身選手となる。
2006年シーズン終了後、引退を決意(2006年10月13日付けで任意引退選手となった)。球団は育成選手としての契約を持ちかけたが、本人の意思は変わらなかった。8月27日の青森県営野球場での二軍・対ロッテ戦が青森での現役最後の登板となった。結局、彼の選手としてのピークはドラフト会議で西武にスルーされた瞬間であったのかもしれない(後述)。
2007年、楽天ジュニアコーチに就任。選手・コーチとともに仙台市を中心とした小学校訪問を行ったり、「楽天イーグルス・BASEBALL SCHOOL」の常勤講師や、同球団が主催する少年野球塾のコーチとしての活動を始める。楽天ジュニアコーチは計5名おり、他には安部理、益田大介、中濱裕之、今関勝が就任している。
2008年、本人の意思により、同年限りでジュニアコーチを退任。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
- 一軍公式戦出場なし
背番号[編集]
- 43 (2001年)
- 63 (2002年 - 2003年)
- 56 (2004年 - 2006年)
インターネット上[編集]
2000年のドラフト会議では、西武ライオンズが、彼を無視してドラフト3位で無名の帆足和幸を取ったことに対し、当時ドラフト会議を実況していた2ちゃんねらーが、「3位帆足だぁ!!ふざけんなゴルァ!!!!!!」と言い放ったことで有名。その後も佐藤友亮、中島裕之などの有力選手を獲得していったが、彼らの推す根市や坂元弥太郎、佐藤充は獲得されなかった。これに対し、ネット上では「東尾解雇希望。」などの書き込みがあったが、結果的には8人中6名[1]が戦力となった西武のドラフトは成功したといえる。なお、坂元は現役の晩年を西武で過ごすこととなるのだが、彼らはその時何を思ったのだろうか。
同様のことが阪神にも言え、後に「平成の盗塁王」と称された赤星憲広などの有力選手を獲得した豊作ドラフトである。しかし、このドラフトを巡っては、チームが暗黒時代であり、「高卒こそ正義」という歪んだ視点が当時はあったとされ、また「アンチ野村」が一定数いたこともこのドラフトが(当初は)非難轟々だったことの要因と思われる。
そんな中で赤星の他にも藤本、沖原など社会人選手を獲得しているが、特に赤星は大卒社会人であったこと、当時無名の選手であったことから大いに叩かれた。特に、とある個人サイトが「4位赤星、ハア?」で知られる考察を出したのは有名である(下記外部サイト参照)。
ちなみに、このサイトは鉄平こと土谷鉄平を絶賛しているが、鉄平が頭角を現したのは楽天移籍後、そして野村監督の下でのことある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 3位帆足だぁ!!ふざけんなゴルァ!!!!!!(新・なんj用語集Wiki)
- 4位赤星、ハア?(新・なんj用語集Wiki)
- 2000年ドラフト会議を振り返る(WebArchive)