板坂卜斎覚書

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板坂卜斎覚書(いたさかぽくさいおぼえがき)とは、徳川家康侍医である板坂卜斎(如春)の関ヶ原の戦い、及びその前後に関する覚書のことである。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は家康の侍医を務めた板坂卜斎(如春)。板坂氏は代々医師を務め、如春の祖父・惟順足利義昭北条氏政、そして家康に侍医として仕えた。その子・宗高(卜斎)は武田信玄や家康に仕えた。その子が如春で、父と同じ法号を称した。如春は天正6年(1578年)生まれで、23歳の時に発生した関ヶ原合戦にも従軍している。その後、紀伊徳川家に仕え、晩年は江戸浅草に居を構えて明暦元年(1655年)に死去している。ただ、卜斎覚書については著者は如春と思われるが、父の宗高の筆があった可能性も存在している。父子そろって同じ法号を称したことが、逆に混乱を招くことになった。

成立年代については、寛永3年(1626年)の記事が覚書に存在すること、写本が寛永19年(1642年)に成立していることから、寛永年間には成立していた可能性がある。ただ、正保年間(1644年から1647年)に宇喜多秀家が存命であることを八丈島から来た者に聞いた、と記録しているため、恐らく如春は寛永年間以降も筆を続けたのだと思われる。

江戸時代中期に徳川吉宗が第8代将軍に就任する。吉宗は曾祖父の家康を尊敬し、その事績を知るために多くの記録を取り寄せ、その際にこの卜斎覚書も取り寄せた。ただし写しであったので、卜斎自筆の書籍を求めた。当時は如春の孫娘が小姓岩本内膳正の養母になっていたため、吉宗は彼女から取り寄せてそれを編年的に整理するように命じた。それを整理したのが小納戸役山本八郎右衛門で、山本は御坊主成島道竹に手伝わせて多くの史料と比較検討(『黒田家譜』や『関原記』など)して、如春が1巻としていたものを上中下の3巻に分けて整えた。こうして史料が完成したのが享保6年(1721年)で、吉宗自ら『慶長年中卜斎記』(けいちょうねんちゅうぼくさいき)と名付けたという。そして、それは多くが書写されて伝わった。

それ以外の別称は『慶長記』(けいちょうき)、『慶長年中記』(けいちょうねんちゅうき)、『慶長板坂卜斎覚書』(けいちょういたさかぼくさいおぼえがき)、『板坂卜斎宗高物語』(いたさかぼくさいむねたかものがたり)、『板坂記』(いたさかき)、『板坂卜斎記』(いたさかぼくさいき)、『卜斎記』(ぼくさいき)、『卜斎慶長記』(ぼくさいけいちょうき)、『卜斎日記』(ぼくさいにっき)、『濃関実録卜斎之記』(のうかんじつろくぼくさいのき)など多数。

内容[編集]

元々全1巻だったが、後年に手が加えられて上中下の3巻になった。

豊臣秀吉に関する記事もあるが、大半は関ヶ原の戦いに関する記録である。合戦については日を追う形で記録しているが、後年に記録したためなのか誤りが見られるところも存在する。ただ、家康の側近として仕えた人物の記録なので、軍記などと比較してその信頼性は非常に高くて貴重なものである。秀吉や家康に関する人柄や逸話も記録している。なお、板坂は関ヶ原で敗れて逃げた小西行長を捕縛した林蔵主、そして薩摩国まで逃げた宇喜多秀家の逃亡を手助けしたとされる進藤三右衛門に直接会ってその経緯を聞いて記録したりもしている。秀家が八丈島で生きているという記録を続けているのも、これが理由なのかもしれない。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]