司隷校尉
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司隷校尉(しれいこうい)とは、中国の官位である[1]。司隷とはもともと西周時代の官位名で、「隷(罪人・捕虜)を司る」を意味する[1]。前漢の武帝の時に首都一帯の治安強化を目的として設置され、かつ常設となった[1]。日本の現代の役職で言うならば警視総監に当たる[1]。司隷校尉の担当範囲は三輔(京兆尹・右扶風・左馮翊)、三河(河内・河南)、弘農郡などに及び、この領域は司隷校尉部(後に司州と改める)と呼ばれ、司隷校尉はこの地域の刺史も担当した[1][2]。後漢や魏、蜀で設置された役職であるが[2]、蜀はこの地域を一度も支配した事は無いため名目上の物であり、重要な人物が就任するために創設された物と推測される。事実、蜀では劉備の股肱である張飛が車騎将軍と兼任する形で任命されており、221年に張飛が部下の張達・范彊に暗殺された後は諸葛亮が就任している[2]。