木村由信
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木村 豊統 きむら とよむね | |||||||||||||||||||
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木村 由信(きむら よしのぶ)は、安土桃山時代の武将・大名。木村氏、後に豊臣氏の家臣。
略歴[編集]
はじめ、豊臣秀吉の家臣・木村重茲の家臣として6000石の知行を与えられた。文禄4年(1595年)7月、主君の重茲が豊臣秀次を弁護したことから連座により切腹となったため(秀次事件)、秀吉の直臣となる。木村姓については重茲から与えられたのか、それとも木村一族なのかは不明である。
慶長3年(1598年)、長束正家と共に越前の検地を行なった。慶長5年(1600年)に美濃北方と越前丹生郡において1万石を与えられ、大名に昇格した。
同年の関ヶ原の戦いでは西軍に属した。東西決戦の際には相良長毎、秋月種長・高橋元種、熊谷直盛、垣見一直、福原長堯と共に美濃大垣城を守備した。しかし、9月15日の本戦で西軍が壊滅すると大垣城は東軍に攻撃され、相良・秋月・高橋らが東軍に内通して垣見、熊谷、そして我が子の豊統と共に城内において殺害されたという[1][2]。