李豊 (魏)
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李 豊(り ほう、? - 254年)は、中国の三国時代の魏の武将[1]。字は安国(あんこく)[1][2]。父は衛尉の李義[1]。子に李韜と李婉(賈充の前妻)。
生涯[編集]
左馮翊郡の出身[1][2]。清廉潔白で人物を識別する能力に優れ、名声は呉越まで行き渡ったという[1]。文帝の時代に既に魏に仕えており、曹叡付の文学の職にあり、曹叡が226年に明帝として即位した頃には黄門郎の地位にあった[1]。239年の明帝崩御後は曹芳に仕え、官位は永寧太僕・侍中・尚書僕射・騎都尉・給事中・中書令と栄転を続ける[1][2][3]。しかし息子の李韜が明帝の娘である斉長公主を娶って準皇族に列した事から次第に傲慢になって権力を笠に着て威張る事も少なくなく、病気を理由に職務を怠って休んだりする事もあったという[1]。
司馬懿と曹爽の政争においては中立の態度を保った[3]。254年、張緝や夏侯玄らと結託して司馬懿の長男・司馬師を排斥するための計画に参画するが、露見して司馬師に自白を迫られ、真実を明かさぬままに悪口の限りを尽くして処刑された[1][3]。死後、息子の李韜をはじめとする三族も連座で皆殺しにされたが[3]、李豊と斉長公主の間の子供のみは明帝の外孫に当たる事から処刑を免れている。
また李豊は権力に驕りはしたが、死後に調べてみると余財は全く遺されていなかったという[1]。
『三国志演義』では史実同様に司馬師によって処刑されるが、255年に司馬師が死の床についた際に幽霊となって夏侯玄らと共に司馬師を苦しめている[1]。