春日山日記
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概要[編集]
著者・成立年代[編集]
この『春日山日記』は30巻本と7巻本の2つに分かれている。30巻本をA、7巻本をBとして説明する。
Aは著者不明。成立年代については、享保15年(1730年)と見られるが、正徳4年(1714年)や享保4年(1719年)夏の説がある。
Bは著者不明。ただ、Aより古いと見られている。
内容[編集]
A、Bのどちらも、上杉謙信の1代記である。ただ、Aは1代記のほか、謙信関係の語録や軍法などが記されている。Aは全30巻41冊。Bは全7巻。
Aは謙信の1代記が主だが、長すぎるので要点だけいうと、村上義清が謙信を頼ったのが天文16年(1547年)になっていること、謙信の出家が天文21年(1552年)1月15日になっていること、小田原城の戦いが永禄3年(1560年)3月になっていること、武蔵松山城の戦いが永禄5年(1562年)になっていること、元亀3年(1572年)10月に川中島の対陣があったとしていること、織田信長が足利義昭を追放ではなく幽閉したとなっていること、天正2年(1574年)に武田勝頼に対して信長との共闘を要請するが、勝頼が拒絶したので、信玄の遺言を引用して勝頼の末路を予言したことなど、とにかく誤りというか出鱈目が多い。
Bは謙信の1代記であるが、父の為景の紹介から始まり、その事績などを簡単にまとめている。ただ、為景は信濃国を侵略する際に村上頼平と戦って流れ矢で死んでいることになっている。以後、謙信の1代記として出生からその死去までが語られている。