孝昭帝

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孝昭帝(こうしょうてい、天平2年(535年) - 皇建2年11月2日561年11月24日))は、南北朝時代北斉の第3代皇帝(在位:560年 - 561年)。姓は(こう)、(えん)。

生涯[編集]

即位と治世[編集]

東魏の権臣・高歓の6男。母は正妻の婁昭君北魏孝武帝皇后高氏高澄、東魏の孝静帝皇后高氏(太原長公主)、高洋(文宣帝)、高湛(武成帝)の同母兄弟にあたる。

兄帝である文宣帝の時代、酒乱で将校を槍で突き殺しているのを見て諫言したが、かえって文宣帝の怒りを買って死にかけるまで杖で殴られたことがある。559年に文宣帝が重病に倒れると、その息子の高殷が若年であったことから後見を託される。ただし文宣帝は高演の野心を見抜いており「お前が皇位を奪うことは仕方がない。ただし殷は殺さないでくれ」と頼んでいたという。

そして兄が崩御して高殷が即位するが、実権は高演が掌握しており、高演は560年に高殷を廃して自ら皇帝として即位し、孝昭帝となる。廃位した高殷は済南王に降格したが、兄の遺命もあってひとまずは助命した。

ところが561年9月、望気者から「(高殷が居住する)鄴に天子の気がある」と言われて孝昭帝は後難を恐れ、高殷を自殺させようとしたが拒否されたため扼殺した。それからわずか1か月後の10月、孝昭帝は狩りに出かけた際に乗馬が飛び出してきたに驚いて孝昭帝を振り落とし、孝昭帝は肋骨を折る重傷を負ってしまう。

死期を悟った孝昭帝は、自らの皇太子である高百年を廃し、弟の高湛に皇位を譲ると遺命した。これは自らが高殷を兄の遺命に叛いてまで殺しているため、高百年が同じように殺されるのを恐れて最初から皇位を高湛に譲っておけば殺されることもないと考えての処置であったと言われている。

そして孝昭帝は高殷の後を追うようにわずか2か月後の11月に崩御した。27歳没。皇位は高湛が武成帝として継承した。

なお崩御の際、母親の婁太后が見舞いに来て「殷はどこにいるのですか?」と尋ねたが、孝昭帝は答えることができなかった。それを見た婁太后は全てを察して「お前なんか死んで当たり前ですよ」と言うと怒って退出したという逸話が残されている。

宗室[編集]

后妃[編集]

子女[編集]