張献忠
張 献忠(ちょう けんちゅう、チャン シィェンヂョン、万暦34年8月17日(1606年9月18日) - 大順3年11月27日(1647年1月2日))は、中国・明末期の農民の反乱軍の指導者。四川省で大虐殺を行なった虐殺者として著名である。張献忠は黄色を帯びた顔色から「黄虎(黄色の虎)」と称された。
生涯[編集]
反乱軍の指導者[編集]
1606年に陝西省の延安で比較的裕福な家庭に生まれた。ところが、当時の明では外敵の侵入や農民の反乱が相次いでいたことから、張献忠は十分な教育を受ける間もなく明軍に徴兵された。しかし軍内で罪状不明であるが、軍法会議にかけられて死刑判決を下される。だが幸運にも恩赦の対象とされて許され、行方を一時くらませた。
1630年に故郷の陝西省で未曽有の旱魃が起こり、そのため民衆が深刻な飢饉に苦しみだすと、張献忠は窮民をかき集めて反乱軍を旗揚げする。当時の華北では同様の農民反乱が相次いで割拠しており、張献忠はかつての軍務経験を生かしてその反乱軍の中でもたちまちのうちに有力者となった。
1635年、明の崇禎帝はこれらの農民反乱を鎮圧するため、中国東北部の南側から秦良玉率いる精鋭軍を派遣する。この精鋭軍はヌルハチやホンタイジら後金の軍勢と戦ってきた精鋭だけに強く、農民軍は次々と敗れて1638年に張献忠も降伏に追い込まれた。しかしその後、崇禎帝はこの精鋭軍を東北部に戻したため、張献忠は再度反乱を起こす。今度は湖北を目指し、1641年には湖北に入って明の皇族である襄王・朱翊銘を殺害した。これは反乱軍の中で明の皇族を殺戮した最初の例である。
同じ明の反乱軍である李自成とは不仲で、張献忠は李自成を避けて軍を四川省に向け、1644年春に遂に四川に入る。数ヵ月をかけて李自成は四川の明軍を破り、同地を制圧した。
恐怖政治と大虐殺[編集]
1644年12月、張献忠は四川に大西を建国して自ら帝位に即位し、首都は成都と定めた。ところが、教育をほとんど受けていない張献忠に政治などとれるわけがなく、部下もほとんどが農民上がりで政治の執行など不可能であった。そのためたちまち、兵士による乱暴狼藉が開始されて四川は治安が極めて劣悪となり、地元の民衆は張献忠ら首脳部に怨みを抱いた。これに対して張献忠は配下の乱暴を黙認し、四川以外の各地にいる反乱軍を四川に呼び寄せて兵力の増強を図るという恐怖政治によって国政を維持しようとした。そのため、日常的に地元民に対して見せしめが必要になりだしたので、大虐殺を開始することになる。
張献忠の非道な所業は以上のようなものである。
- 自分に従わない者が一人でも家族にいる場合は、最初はその家族を、次に近隣の人々を、そして最後には町中の人々を虐殺した。記録には陝西省に使者として出された住民のひとりが、張献忠の恐怖政治を恐れてそのまま逃げだして帰って来なかったので、張献忠はその都市の住民を全て殺してしまった。
- 明の遺臣も李自成の旧部下も張献忠の非道な行いを知って協力しなかった。あるとき、成都でひとりの学生が李自成と密かに通じているのが発覚し、張献忠は科挙をやると計画して受験生を誘き出すと、2万人に及ぶ受験生が全て殺害され、山をなす試験用紙だけが残されることになった。
- 張献忠は非道な男であるから、罪人の皮を生きながら剥ぐように命じた。そして皮を剥がれていた罪人が途中で息絶えると、今度は処刑人を同じように殺した。3年後に成都で張献忠が任命した役人600名のうち、粛清の中を生き延びていたのはわずか20人足らずであった。
- 1645年、張献忠は四川省との省境に近い陝西省漢中市を陥落させられなかったという理由で、地元で徴兵した14万人の兵士を殺戮した。
- お気に入りの処刑人が病死したとき、張献忠は深く悲しみ、その治療をした医師を殺し、さらに死んだ処刑人に捧げるとして100人の医師まで殺した。
- 妊婦がいると、胎児の性別を確かめたいとして妊婦を殺して楽しんだ。張献忠の前では女性は大抵、快楽のために凌辱された上で殺されるのが常だった。
- 張献忠はマラリアに倒れたが回復し、その感謝を捧げるために纏足した足を切断するという方法で多くの女性を殺した。その中には自分の寵姫まで含まれていた。
これらは後の清による実情以上の悪人として描かれている可能性もあるのだが、張献忠の大虐殺があながち間違いとは思えない証拠もある。
- 当時、明にいてイタリア人のイエズス会士であるマルティーノ・マルティーニは「(張献忠は)大勢の人々が暮らしていた四川を広大な荒野に変えた」と記録している。
- 清の政府は後に四川を平定するが、その際にとられた統計で四川の人口だけが異常に少なかったので、現在の湖南省・湖北省・広東省などから大量の移民を奨励した。この移民の大移動は「湖広、四川を填たす」という言葉で知られ、その痕跡として四川省の僻地では広東省の古い方言が未だに話されているという。
- 張献忠による大虐殺が行われた地域では余りに多くの死体が転がっていたので、野良犬でさえ死体には見向きもしなかった。
- イエズス会の宣教師でイタリア人であるルドウィクス・ブーリオとポルトガル人のガブリエル・デ・マガリャンイスも張献忠に危うく殺されかけたが何とか逃れたと記録にある。
- マルティーノ・マルティーニによる著書『韃靼戦記』には張献忠の虐殺による四川の惨状が、1654年にロンドンで出版されることで世界中に知れ渡った。なお、他のカトリックの記録でも張献忠の虐殺による惨状が伝えられている。
- 明の末期に四川には約500万人の人口がいたが、清が後に統計をとるとそのわずか1割ほどしか残っていなかったという。
- 現在、成都近郊の広漢市には「七殺碑」なるものが残されている。これは張献忠自身が書いたものとする説もあるが、消えかけた碑文には簡潔で非情である「殺殺殺殺殺殺殺」の7文字が残されている。
最期[編集]
1644年に李自成は明を滅ぼすが、間もなく清と呉三桂の連合軍により北京を追われ、1645年に殺された。清軍は四川にも侵攻し、張献忠は清軍に対抗するために陝西省に自ら向かうも、その途上で清の皇族・粛親王豪格の軍勢に矢を射られ、あるいは捕らえられてすぐさま処刑されたという。41歳没。