山県秀政
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山県 秀政(やまがた ひでまさ、? - 天正10年(1582年)?)は、戦国時代の武将。若狭武田氏の一族で家臣。
生涯[編集]
仮名は原三郎。受領名は下野守。諱は「盛信」とする説もあるが、一次史料で確認できるのは秀政のみである。
父は若狭武田家の当主・武田元信。山県氏の養子となり、三方郡藤井城主として藤井村を支配した。ただし、藤井を支配していたというのに遠敷郡で活動が多くみられるため、誤りの可能性もあるかもしれない。
若狭武田家の歴代当主に忠実に仕え、同家の若狭国における威令が衰退して国衆が従わない事例が続く中で、秀政は一貫して本家を盛り立てることに貢献した。永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、秀政は信長に服従を誓った。
元亀元年(1570年)4月、信長が朝倉義景を攻めた際に天筒山城・金ヶ崎城の戦いに参加する。天正3年(1575年)7月1日に武田元明に従って上洛し、相国寺において信長と謁見している。同年8月の越前一向一揆征伐においては他の若狭衆と共に海上からの攻撃軍に参加した。
天正9年(1581年)2月28日の京都御馬揃えに参加し、当時は信長から若狭の支配権を任されていた丹羽長秀の下で行進している。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きて信長が横死すると、元明と共に明智光秀に属した。そのため羽柴秀吉や丹羽長秀の追討を受けて元明は殺害され、秀政もこの際に殺害されたとも若狭から没落したともいわれている。