山田坂仁
山田 坂仁(やまだ さかじ、1908年(明治41年)12月20日 - 1987年(昭和62年)6月3日)は、唯物論哲学者[1]、経営学者[2]。元明治大学経営学部教授。武谷三男の技術論に対する批判や[1]、宗教批判、唯物史観、自然科学思想史の研究で知られる[2]。
来歴[編集]
長野県上諏訪町文出(現・諏訪市豊田)生まれ。松本高校時代、禅の影響で坐禅を始め、農本主義者和合恒男の私塾瑞穂精舎にも通う。1929年、東京帝国大学文学部哲学科(西洋哲学専攻)入学。1930年に三枝博枝主宰の「ヘーゲル及弁証法研究会」に参加、1931年以降日本労働組合全国協議会(全協)の非合法活動に関わる。レーニンの『唯物論と経験批判論』を読んだ影響で、弁証法的唯物論に転向する[2]。
1932年、東京帝大文学部哲学科卒業、報知新聞社に入社。唯物論研究会(唯研)に所属し[2]、「哲学のレーニン的段階」に関する論争に参加[3][1]、山岸辰蔵・薬袋俊二・鵜飼隆夫などの筆名で機関誌『唯物論研究』などに執筆した。1933年、日本プロレタリア科学同盟哲学委員会に参加、舩山信一、松村一人、永田広志らと活動し、1934年に検挙された。同年、戸坂潤、岡邦雄、永田らと共に唯研の幹事に就任。1937年、報知新聞社を退社、東京府立第九中学校(現・東京都立北園高校)の英語教師となった。1938年11月29日の唯研事件で検挙されたが、まもなく釈放された。以後、左翼運動から自然科学史、心理学、技術史の研究に軸足を移し、雑誌『科学主義工業』などに論文を発表した。1940年、府立九中を退職、読売新聞社外報部の嘱託となり、翻訳を担当。1941年、アレクサンドル・オパーリンの『生命の起原』の英訳本を翻訳、出版した。1943年、読売新聞社を退職、北隆舘の出版部長となった[2]。
敗戦後の1945年、北隆舘を退職、千葉工業大学予科教授となった。民主主義科学者協会(民科)に1946年の創立時から参加し、哲学部会に所属、民科幹事[2]、評議員を務めた[3]。1946年、47年の技術論論争では、岡邦雄らと共に労働手段体系説の立場から武谷三男の技術論を批判した[3][1][2]。主体性論争では、松村一人と共に梅本克己らの実存主義的な主体性唯物論を批判した。1946年、日本共産党に入党。1947年、『唯物論研究』の創刊に関わり、1948年、佐木秋夫らと共に唯物論研究所の設立に参加。1951年、千葉工大教授を退官。1955年、明治大学経営学部専任講師。1957年、同大学経営学部教授となり、経営技術論、倫理学、自然科学思想史の講義を担当する[2]。
1960年から、かつての技術論論争を自己批判する[3]。1967年、ソ連・東欧諸国を歴訪、この頃から中共派となり[2]、1970年代には毛沢東主義の立場に立った[3][1]。1975年、日中友好東京都民協会初代会長。1976年、山崎謙らと訪中。1979年、明治大学を定年退職[2]、5年間同大学非常勤講師[4]。比較社会主義学会を発足させ、その代表、また雑誌『季刊クライシス』編集委員となった[2]。のち同誌論説委員[5]。
1987年6月3日、肺炎のため、東京都三鷹市の病院で死去、78歳[6]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『科学思想史――唯物史観』(新興出版社、1948年)
- 『思想と実践』(北隆館、1948年)
- 『自由と必然』(北隆館、1949年)
- 『共産主義者は宗教をどう見るか』(三一書房、1949年)
- 『宗教と共産主義』(ナウカ社[ナウカ講座]、1949年)
- 『理性と信仰――大科学者の宗教観』(ナウカ社[ナウカ百科全書]、1951年)
- 『史的唯物論(新科学社[新科学の基礎知識]、1953年)
- 『現代の倫理』(泉文堂、1957年)
- 『技術と経営』(白桃書房、1965年)
- 『支配と抵抗の論理』(三一書房、1975年)
- 『八〇年代の世界危機と社会主義』(三一書房、1980年)
- 『認識論と技術論』(いいだもも編・解説、こぶし書房[こぶし文庫 戦後日本思想の原点]、1996年)
共著[編集]
- 『認識論』(戸坂潤、山岸辰蔵共著、三笠書房[唯物論全書]、1937年)
編著[編集]
- 『哲学小辞典』(篠崎武共編、泉文堂、1963年)
- 『現代修正主義批判――第二回シンポジウム報告集』(編、三一書房、1979年)
訳書[編集]
- ダヴィッド・カッツ『動物と人間――比較心理学的研究』(三笠書房、1940年)
- オパーリン著、モルギュリス註『生命の起原』(慶應書房、1941年)
- オパーリン『生命の起原』(岩崎書店[科学選書]、1946年/岩崎書店、1947年)
- オパーリン『生命の起源』(三笠書房[三笠文庫]、1952年)
- フリードリヒ・ダンネマン『自然科学史入門(上・下)』(慶應書房、1941-42年)
- チヤールス・シンガー『魔法から科学へ』(北隆館、1944年/北隆館、1955年)
- フリードリッヒ・エンゲルス『空想から科学への社会主義の発展』(山岸辰蔵訳、社会主義著作刊行会[社会主義著作集]、1946年)
- クラウサー『唯物史観科学思想史』(富士出版社、1952年)
- W・G・バーチェット『人民民主主義の国々――ルポルタージュ(上・下)』(青木書店[青木文庫]、1953年)
- W・G・バーチェット『纏足を解いた中国(上・下)』(岩波書店[岩波新書]、1954年)
- T・ハックスレー、オパーリン『世界大思想全集 第2期 社会・宗教・科学思想篇 第36』(八杉竜一、小野寺好之共訳、河出書房、1955年) - オパーリン「生命の起源」を担当
- 『マルクス・エンゲルス選集 第12巻 反デューリング論Ⅱ』(宇野弘藏、岡崎次郎、玉野井芳郎、近江谷左馬之介、今來陸郎、山崎八郎、都留大治郎共訳、新潮社、1956年)
- W・R・アシュビー『頭脳への設計――知性と生命の起源』(宮本敏雄、銀林浩、橋本和美共訳、宇野書店、1967年)
- E・L・ウィールライト、B・マクファーレン『中国経済の解剖――社会主義への中国の道』(サイマル出版会、1973年)
出典[編集]
- ↑ a b c d e 後藤道夫「山田坂仁」朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1694頁
- ↑ a b c d e f g h i j k 本村四郎「山田坂仁」近代日本社会運動史人物大事典編集委員会編『近代日本社会運動史人物大事典 4』日外アソシエーツ、1997年、737-739頁
- ↑ a b c d e しまねきよし「山田坂仁」朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1457-1458頁
- ↑ 大泉溥編纂『日本心理学者事典』クレス出版、2003年、1167-1669頁
- ↑ 『季刊クライシス』第29号、社会評論社、1987年2月
- ↑ 「山田坂仁氏死去」『朝日新聞』1987年6月4日付朝刊27面(1社)
参考文献[編集]
- 山田坂仁(やまだ さかじ) - コトバンク
- 山田 坂仁(ヤマダ サカジ) - コトバンク
- 佃實夫ほか編『現代日本執筆者大事典 第4巻 (人名 ひ~わ)』(日外アソシエーツ、1978年)
- 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』(平凡社、1987年)
- 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』(日本図書センター、2006年)
関連文献[編集]
- 伊藤康彦『武谷三男の生物学思想――「獲得形質の遺伝」と「自然とヒトに対する驕り」』(風媒社、2013年)
- 中村静治『新版 技術論論争史』(創風社、1998年)