山本実尚

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山本 実尚(やまもと さねひさ、明応4年(1495年) - ?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。受領名は対馬守で諱は不詳。三好氏の家臣。のち室町幕府幕臣となり、織田氏の家臣。

生涯[編集]

受領名は佐渡守。剃髪後は佐渡入道、あるいは一雲と号した。山城国愛宕郡岩蔵の豪族。子に山本対馬守吉田兼見外祖父で、磯谷久次の岳父に当たる。

室町幕府や織田家に仕える以前の経歴はあまりはっきりしていない。山科言継公家と交流があったとされ、三好三人衆に味方して三淵藤英と戦ったという。三好三人衆が没落し、織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、これに従った。するとそれまで横領していた光源院領を返還するように義昭に命じられ、従ったという。しかし、永禄12年(1569年)1月に三好三人衆が足利義昭を急襲する本圀寺合戦が発生すると、三人衆側に寝返って勝軍城などを焼いている。

高齢もあってか、その後は息子の対馬守の活動が見られているため、家督を譲った可能性がある。三好三人衆に寝返った件は許されて足利義昭に仕えており、元亀3年(1572年)11月の磯谷久次の子・磯谷千代寿元服式に明智光秀と同席しているのが確認される。

元亀4年(1573年)2月、織田信長と足利義昭の対立が決定的となると、息子の対馬守は義昭に属して信長と敵対し、10月に織田軍に追討されて処刑されているが、実尚は罪に問われていない。それどころか天正11年(1583年)6月25日に吉田兼見を訪問している記録がある。この際は佐渡入道一雲を称しており、89歳という高齢でまだ存命だったことになる。