小島民部少輔

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小島 民部少輔(おじま みんぶのしょう、? - 慶長15年(1610年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将織田信長の3男・織田信孝の異父兄に当たる。

生涯[編集]

勢州軍記』においては兵部少輔とある。父は織田彦八

信孝が北伊勢国神戸氏養子になった際、信孝に仕えた。元亀2年(1571年)から神戸氏旧臣に対する粛清が行われると、小島はその後釜として高岡城主に任命された。天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が死去し、その後の清須会議で信孝が美濃国岐阜城主になると、小島は神戸城主に任命されて北伊勢の守備を任された。清須会議後、信孝は柴田勝家と組んで羽柴秀吉と対立し、勝家が雪で動けない間に秀吉は信孝を攻め、信孝は秀吉に降り、小島も秀吉に降ってその代償として近隣の砦を破却するように秀吉に命じられている。

天正11年(1583年)に信孝が再度、秀吉に対して挙兵すると、小島もそれに連携して神戸城で挙兵。しかし柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れて滅亡し、信孝も再度、秀吉に降って自害したため、小島は林正武に神戸城を明け渡した。

その後は前田利長に仕え、越中国守山において1000石を知行する。慶長15年(1610年)に死去した。