大坂の陣

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大阪夏の陣から転送)
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大坂の陣(おおさかのじん)とは、2度に亘る江戸幕府軍と豊臣氏の戦いである。なお、当時は「大阪」は「大坂」と書かれる。

大坂冬の陣[編集]

大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)は慶長19年(1614年10月にあった戦い。

豊臣秀頼徳川秀忠の娘、千姫を娶って徳川と姻戚になったものの、実母淀殿同様、「太閤の忘れ形見」のプライドを捨てず、秀吉天下統一後の織田氏のような「体制従順」の姿勢は取らなかった。
そうした中で徳川家康は、方広寺の「国家安康」の鐘銘を見つけ、金地院崇伝に豊臣方を詰問したが反駁したため、それを言いがかりに戦いを仕掛けた。

淀殿は豊臣恩顧の大名に加勢を依頼したが全て断られ、城内に長宗我部盛親真田幸村毛利勝永明石全登といった関ヶ原西軍参加の元大名や主君を失った浪人から成る軍勢を集結した。

真ん中少し左上寄りの城が真田丸。図内では「真田出城」と表記されている。

幸村はその前から出城の真田丸を作っており、真田丸に徳川軍を詰まらせて大阪城に入れないように工夫した。戦いはイギリス製の大砲におののいた淀殿が和睦を申し出て終了。

大坂夏の陣[編集]

大坂夏の陣(おおさかなつのじん)は、慶長20年(1615年4月から5月にあった戦い。

概要[編集]

冬の陣の和睦で大坂城は「そうがまえ」を埋めることになり、外堀だけでなく内堀まで埋められた。淀殿はクレームしたが、家康は、大坂城内の浪人追放、淀殿江戸城人質と秀頼大和・伊勢転封を交換条件に出し、これを豊臣方が拒否したため、戦いが勃発。
慶長20年5月7日大坂城陥落により終了。この時に徳川家康真田幸村により窮地に追い込まれ、幸村は家康をあと一歩まで追い詰めた。この功績が後に認められ「日の本一の兵」と呼ばれるようにもなった。5月8日豊臣秀頼らが自殺し、豊臣氏は滅亡した。