大石又七

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大石 又七(おおいし またしち、昭和9年(1934年1月23日 - 令和3年(2021年3月7日)は、反核運動家。元漁船乗組員。第5福竜丸の元乗組員として知られている。

経歴[編集]

静岡県出身。14歳の時に漁師となり、第5福竜丸に乗り込んで操業する。その最中の昭和29年(1954年3月1日太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁アメリカ軍が実施した水爆実験・ブラボーによる放射性降下物である死の灰を浴びた。これにより乗組員23名が被ばくしてしまい、この半年後に当時40歳だった無線長の久保山愛吉が死去した。大石も被ばくして生涯にわたり苦しむことになる。

事件後、大石は被ばくにより支給された見舞金をめぐって周囲からやっかまれたことにより、逃げるように上京してクリーニング店を経営し始める。多くの元乗組員は事件について口をつぐんだが、大石は被ばくによる肝臓癌の発病に苦しみながらも自らの体験を語り、核兵器の恐ろしさを多くの人に伝えることに努めた。また、大石の第1子は死産であったし、多くの仲間も相次いで亡くなるなど不幸が相次いだ。被ばくした第5福竜丸は東京夢の島第5福竜丸展示館学校、各地の集会で講演したり、著書は英訳したりしたものを含めて5冊、出版している。なお、第5福竜丸事件が起きた際に被ばくしたマグロが廃棄され、埋め立てられて処分されたが、それが行なわれた東京・築地市場マグロ塚を建てる募金活動を進めて、経緯を記したステンレス製の銘板が平成11年(1999年)に設置されている。

平成23年(2011年)に東日本大震災が発生し、それによる東京電力福島第1原発事故が起きると、大石は原発を含む核の廃絶を強く訴えた。平成24年(2012年4月脳出血に倒れるもリハビリをして再起する。平成25年(2013年1月に復帰すると、第5福竜丸展示館の学芸員らのサポートで証言活動を続けた。また、展示館を運営する公益財団法人・第5福竜丸平和協会の評議員を務めている。平成26年(2014年3月、被ばくから60年してマーシャル諸島を訪れて、追悼式典で挨拶している。

令和元年(2019年)に転倒して足を骨折したことにより、神奈川県の施設に入所し、証言活動は困難となったが、なおも訪問者らに自らの体験を務めるなど核の反対を唱え続けた。大石は事件を風化させたくなかったため、昭和58年(1983年10月から証言を開始し、生涯にわたって700回を超える証言を行なっている。大石は主に将来がある小学生中学生などの若い世代に「核の無い世界を作ってほしい」と思いを寄せていた。

令和3年(2021年)3月7日午前、誤嚥性肺炎のため、神奈川県三浦市病院死去。87歳没。

著作[編集]

  • 大石又七著、工藤敏樹編『死の灰を背負って : 私の人生を変えた第五福竜丸』 新潮社 1991年
  • 大石又七お話、川崎昭一郎監修『第五福竜丸とともに : 被爆者から21世紀の君たちへ』新科学出版社 2001年3月
  • 『ビキニ事件の真実 : いのちの岐路で』みすず書房 2003年
  • 大石又七 『これだけは伝えておきたいビキニ事件の表と裏 第五福竜丸・乗組員が語る』 かもがわ出版、2007年7月20日。ISBN 9784780300956
  • 『矛盾 : ビキニ事件、平和運動の原点』武蔵野書房 2011年
  • The day the sun rose in the west : Bikini, the Lucky Dragon, and I Author: Oishi Matashichi; Translator: Minear, Richard H. , University of Hawaiʻi Press, May 2011[1]

テレビ出演[編集]

脚注[編集]

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