許允 (魏)

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許 允(きょ いん、? - 254年)は、中国三国時代武将士宗(しそう)[1]

生涯[編集]

歴代の名門の家柄出身で、魏王朝で侍中尚書中領軍と要職を歴任した[1]。254年に李豊らにより反司馬師のクーデターが起こされて失敗すると、連座して国庫品乱用の罪に問われて命こそ助かるが流罪とされ、流刑先に赴く途上で死去した[1]

251年司馬懿が死去した際、司馬懿により不遇の立場に置かれていた友人の夏侯玄に対して「これで枕を高くして眠れますね」と語ると「とんでもない。君の眼は節穴ではないのか。司馬懿はあれでもわしを友人(夏侯尚)の息子として遇してくれた。司馬師と司馬昭の2人はとてもとても、わしを許しはすまい」と答えられてたしなめられた逸話がある[2]

脚注[編集]

  1. a b c 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、84頁
  2. 守屋『中国皇帝列伝・創業編』P174

参考文献[編集]