和洽
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和 洽(か こう、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家。字は陽士(ようし)[1]。子は和リ・和逌。孫は和嶠・和都。
生涯[編集]
豫州汝南郡西平県の出身[1]。最初孝廉に推挙され、大将軍の何進に招聘されたが応じず、中央の戦乱を避けて南へ逃げて荊州の劉表に仕えた[1]。劉表からは厚遇されたが、和洽自身は劉表を暗愚な君主と見て武陵郡に移り住んだ[1]。
208年に劉表が死去し、曹操が荊州を平定するとその招聘を受ける[1]。魏が建国されると侍中に任命され、その後も要職を歴任して明帝の時代に太常となった[1]。
『三国志演義』では王粲と共に曹操の魏王就任の実現に奔走するが、荀攸の反対にあった場面のみに登場する。