呂虔
呂 虔(りょ けん、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の武将・政治家。字は子恪(しかく)[1]。子に呂翻。孫に呂桂。
生涯[編集]
兗州任城郡(現在の山東省済寧)の出身。曹操が兗州を支配している時に胆力を買われて従事に取り立てられた[1]。襄賁(現在の山東省蒼山の東)において襄賁校尉の杜松の配下の炅母が反乱を起こし昌豨と同調したため、呂虔が反乱鎮圧に向かうがこの時に呂虔は炅母とその腹心数十人を酒宴に招いて酔いつぶれた所を殴り殺し、その上で残った配下には寛大な処置を行なって服従させたという[1]。この功績で泰山郡の太守を兼任の形で任命され、恩愛と信義をもって支配したので付近の賊が全て呂虔に帰順した[1]。そして呂虔は服従した者から屈強な者を選抜して精鋭兵を組織し、済南で起こった黄巾賊の残党である徐和の反乱を鎮圧し、さらに東萊で暴れていた李条も鎮圧するなど目覚ましい軍功を重ねて負け知らずだった[1]。泰山郡は10数年にわたり呂虔によって治められた。
文帝の時代になると裨将軍に任命され、益寿亭侯に封じられ、さらに徐州刺史・威虜将軍に昇進する[2][1]。この際にも利城郡での反乱鎮圧に功を立てた[1]。
明帝の時代には万年亭侯に国替えされるが200戸を加増されて領邑は600戸になるなど厚遇された[1]。評判の高かった王祥に民政を委ねるなど人物眼もあり、世間から評価されたという。
『三国志演義』では劉曄に推薦されて満寵と共に曹操に仕える[1]。呂布や張繍、袁紹との戦いに参戦しているが呂布の家臣である薛蘭を討ち取るくらいしか功績が無く、史実のような名将とは言えない[1]。第48回の赤壁の戦いにも参戦しているが後詰としてであり、しかもそれ以後は第86回での曹丕の孫権討伐まで登場せず、しかもその際も許褚と共に曹丕の護衛としてであり、長寿の人物である割に登場は少なく、活躍が描かれていない不遇ぶりである[1]。