吉野行宮

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吉野行宮(よしののあんぐう/よしのあんぐう)とは、大和国吉野山山中で、現在の奈良県吉野町大字吉野山にあった南朝行宮吉野皇居跡(よしのこうきょあと)、吉野朝皇居跡(よしのちょうこうきょあと)ともいわれる。

概要[編集]

蔵王堂に向かって左の石段を下ると、実城寺屋敷と呼ばれる地があり、ここは元は南朝の皇居跡であった。

延元元年/建武3年(1336年)12月、楠木正成を失って足利尊氏の大攻勢を受けた後醍醐天皇は、一時的に捕らえられていた足利軍の監禁場所から脱出し、葛城山路を経て吉野に還幸し、吉水院宗信らに迎えられて一時は吉水院を自らの行在所とした。やがて、この実城寺の寺号を金輪王寺と改めて皇居と定め、京都への復帰を目指して活動を続けたが、北畠顕家新田義貞らを相次いで失って失意に暮れた後醍醐天皇はこの地で崩御した。

後醍醐天皇の崩御から9年後、楠木正成の遺児・楠木正行が挙兵するが、尊氏が差し向けた高師直率いる室町幕府軍の前に四条畷の戦いで敗死した。勢いに乗った師直は吉野に攻め入り、後醍醐天皇の跡を継いでいた後村上天皇賀名生行宮に逃亡し、吉野は幕府軍によって皇居をはじめ蔵王堂など悉くが焼き払われた。

寺は間もなく再建されたが、江戸時代になって江戸幕府を開いた徳川家康は、吉野大衆の勢力が尊王勢力と結びつくことを恐れて、自らの側近であった天海を吉野山の学頭に任命し、金輪王寺の寺号を没収して元の実城寺に戻し、山内は天領と定めた。実城寺は江戸幕府崩壊後の明治8年(1875年)に廃寺となった。

現在はここに「吉野朝宮址」の碑、南朝妙法殿、昭和31年(1956年)建立の南朝4代天皇(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇後小松天皇)と、南朝を支えた忠臣、そして太平洋戦争で戦没した人々を祀る三重塔が建っている。

アクセス[編集]