厳畯
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厳 畯(げん しゅん、生没年不詳)は、中国の三国時代の呉の学者・政治家。字は曼才(まんさい)[1][2]。子は厳凱・厳爽。従甥は厳武。
生涯[編集]
徐州彭城郡(現在の江蘇省徐州市)の出身[1]。若い頃に学問に励むも、郷里の徐州における戦乱を避けて江東に移住する[1][2]。古典に精通し、諸葛瑾や歩隲と並び称された[2]。張昭の推挙を受けて孫権に仕え、騎都尉・従事中郎に任命される[1][2]。217年に魯粛が死去すると陸口駐屯の後任に選ばれるも、涙ながらに固辞して呂蒙を後任とした[1][2]。229年に孫権が皇帝に即位すると衛尉に任命されて同盟国の蜀への使者となり、蜀の丞相である諸葛亮から高く評価された[1][2]。
しかし友人が罪を犯したのをかばったため、一時免職される[1][2]。その後、尚書令として復職して78歳で死去した[1][2]。著書に『孝経伝』『潮水論』がある[2]。
『三国志演義』では第43回の赤壁の戦いで諸葛亮に論戦を挑んだ幕僚の一人として登場している[1]。