武藤武雄

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武藤 武雄(むとう たけお、1916年3月20日 - 1978年10月20日)は、労働運動家、政治家。日本労働組合総評議会(総評)初代議長、衆議院議員。

経歴[編集]

茨城県那珂郡山方町(現・常陸大宮市)生まれ。1930年小貫農業公民学校卒業。常磐炭鉱で会社系鉱夫として働く[1]。1946年1月常磐炭礦湯本礦労働組合初代組合長[2]。同年6月常磐地方炭鉱労働組合連合会(磐炭連)常任執行委員[3]。同年9月日本鉱山労働組合常磐支部連合会(日鉱常連)初代議長。同年11月常磐炭鉱労働組合初代副組合長、湯本支部長[4]。1947年1月福島県炭鉱労働組合協議会初代議長[2]炭鉱労働組合全国協議会(炭協)初代副議長。同年10月日本炭鉱労働組合同盟(炭労)初代会長[5][注 1]。1950年7月日本労働組合総評議会(総評)初代議長。1951年GHQの命令に従いメーデーを中止[1]。その直後の5月3日の憲法記念祝典(皇居前広場)で労働歌を合唱し、政令325号違反容疑で逮捕[6][7]。1952年の破壊活動防止法案の国会審議および労働三法改悪に反対する労闘(労働法規改悪反対闘争委員会)ストでは、法案撤回を修正闘争に切り替えて炭労ストを延期させた[1]。このため同年4月23日の炭労第4回臨時大会で執行部不信任動議が可決され、炭労委員長を辞任、4月26日に総評議長も辞任した[6]

1952年11月に常磐炭鉱労組が炭労を脱退、12月に常磐地方炭鉱労働組合連合会(常炭連)を結成、同委員長[6]。1953年2月全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)幹事[8]。1954年4月に日鉱と常炭連が合併し全国石炭鉱業労働組合(全炭鉱)を結成、総同盟を通して全日本労働組合会議(全労会議)に加盟。全炭鉱副委員長[9]、同常磐地方本部委員長[10]。1958年5月の第28回衆議院議員総選挙に福島3区から日本社会党公認で立候補し初当選。1960年1月民主社会党(民社党)結成に参加し[7]、同年11月の第29回衆議院議員総選挙に福島3区から民社党公認で立候補したが落選した。民社党中央執行委員、同総務局長を歴任[11]

選挙歴[編集]

施行日  選挙  選挙区 政党 結果
1953年4月19日 第26回衆議院議員総選挙 茨城2区(中選挙区) 右派社会党  落選
1955年2月27日 第27回衆議院議員総選挙 茨城2区(中選挙区) 右派社会党  落選
1958年5月27日 第28回衆議院議員総選挙 福島3区(中選挙区) 日本社会党 当選
1960年11月20日 第29回衆議院議員総選挙 福島3区(中選挙区) 民主社会党 落選
1967年1月29日 第31回衆議院議員総選挙 東京9区(中選挙区) 民主社会党 落選
1969年11月27日 第32回衆議院議員総選挙 東京9区(中選挙区) 民社党 落選

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 1948年日本炭鉱労働組合連合会と改称。1950年日本炭鉱労働組合と改称し単一組合化。

出典[編集]

  1. a b c 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
  2. a b 庄司吉之助「終戦直後の常磐地方炭砿労働組合の結成と運動」『東北経済』64号、1978年
  3. 労働省編『資料労働運動史 昭和20.21年』労務行政研究所、1951年、443頁
  4. 労働省編『資料労働運動史 昭和20.21年』労務行政研究所、1951年、546-547頁
  5. 筑豊石炭礦業史年表編纂委員会編『筑豊石炭礦業史年表』西日本文化協会、1973年
  6. a b c 法政大学大原社会問題研究所編『新版 社会・労働運動大年表』労働旬報社、1995年
  7. a b 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年、342頁
  8. 中村菊男『戦後民主的労働運動史――同盟会議への歩み』日刊労働通信社、1964年
  9. 法政大学大原社会問題研究所編『日本勞働年鑑 第28集/1956年版』労働旬報社、1971年
  10. 清宮一郎『常磐炭田史 第2巻』筑波書林、1986年
  11. 楳本捨三『民社党二十五周年史』民社党二十五周年史頒布会、1984年

関連項目[編集]

関連文献[編集]