佐伯又三郎
佐伯 又三郎(さえき またさぶろう、天保10年(1839年[1]) - 文久3年8月10日(1863年9月22日))は、江戸時代末期(幕末)の新選組の隊士で副長助勤。苗字は斉木とも表記され、名は亦三郎とも表記される[1]。近藤勇や芹沢鴨と並ぶ有力者の一人だったが、謎の最期を遂げた。
生涯[編集]
出身地に関しては長門国(現在の山口県)とも江戸(現在の東京都)とも言われる[1]。前半期の経歴は明確ではなく、京阪で浪人していたという。文久3年(1863年)3月に浪士隊を脱退した近藤勇や芹沢鴨と知己を得て盟友となり、3月10日に近藤・芹沢と連名で京都守護職の松平容保に対して京都残留嘆願書を提出し、新選組の前身である壬生浪士組の創設者の一員となる[1]。
副長助勤を務めて芹沢鴨に接近する一方で、京阪を長く浪人していた事から関西の地理に詳しい事を買われて大坂方面へ出張する事が多く、当地での情報収集にあたった[2]。4月8日に屯所である八木家の子女の葬儀に参列し、8月2日には芹沢鴨が横恋慕したため新選組から脱走を図った佐々木愛次郎とあぐりを追跡して斬殺している[2]。
ところが、この事件の8日後の8月10日に佐伯は島原で遊興中に突如として正体不明の何者かに連行され、朱雀村領千本通丹波口北の田地において斬首されたという[2]。享年25。
佐伯の遺体は身元不明のまま大坂西町奉行によって収容され、2日後の8月12日に四条大橋東詰に遺体引取人を求める高札が立てられたという[2]。墓所は東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地[2]。
佐伯を殺害した犯人は諸説があり、現在まで定説には至っていない。芹沢に近づいて信任を得ていたために嫉視する者も少なくなく、芹沢愛用の一角鯨の根付を盗んだ事を口実にして芹沢周辺の側近、あるいは芹沢自身の意思により始末されたとする説と、長州藩出身であった佐伯は久坂玄瑞ら長州主要部と密かに接近して情報を収集して新選組に機密を報告していたとされ、これを知った久坂が佐伯を始末に及んだとする説がある[2]。