新選組

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新選組(しんせんぐみ)とは、幕末の京都において、尊王攘夷派志士を取り締まった幕府京都守護職麾下の治安維持組織。新撰組と書かれた資料もある。

新選組概史[編集]

文久3年(1863年)2月、清河八郎が作った「浪士組」は、上洛する将軍・徳川家茂護衛のため江戸を出発。
この「浪士組」には芹沢鴨近藤勇土方歳三山岡鉄舟など錚々たる顔ぶれが揃っていたが、実情としては農民や町人の寄せ集めであった。
さらに、この「浪士組」は名目上は徳川家茂の護衛のための組織であったが、リーダーの清河の真の目的は尊皇攘夷の先鋒を務めることであった。

これに反発した近藤や芹沢は京都に残留することを宣言し、清河はこれに見切りをつけてさっさと江戸に向かった。
やがて、京都守護職に就任した会津藩松平容保御預かりの「壬生浪士組」を結成し、同年8月に発生したクーデターの八月十八日の政変に出征して目覚ましい働きをした。 9月には「新撰組」を拝命し、本格的な治安維持活動を開始したが、局長である芹沢が天狗党時代の仲間の平山五郎や新見錦とともに乱暴狼藉を働いたため、イメージダウンを加速させることを懸念した松平容保は近藤に芹沢一派の粛清を命じた。近藤らはまず新見錦を切腹させ、徐々に芹沢一派の外堀を破壊していった。そして、ついに芹沢と平山を暗殺し、局長の後釜には近藤が据えられた。

文久4年・元治元年(1864年)の6月に、池田屋で長州と土佐の過激分子を捕縛並びに殺害して、過激派によるテロ行為を防いだ。世にいう池田屋事件である。
ことの発端は、隊士の山崎烝が密偵として京の街を探索していたところ、枡屋喜右衛門という商人が度々長州藩邸を出入りしているのを発見した。実は、この枡屋喜右衛門は仮の姿で、本名を古高俊太郎という過激派分子の一人であった。
すぐさま古高を捕縛したが、なかなか口を割らない古高に業を煮やした土方が古高に苛烈な拷問を行うと、古高はあっさり白状した。
過激派分子の計画は、まず京の街に放火して住民を混乱に陥れた後、その混乱に乗じて孝明天皇を誘拐することと、松平容保を暗殺することであった。

近藤らは以上の計画の談合が行われた会場の池田屋を襲撃し、実行を未然に防いだ。さらに、池田屋事件の意趣返しとして長州藩の過激派の久坂玄瑞らが禁門の変を起こすが、新選組は幕府方としてこの禁門の変にも参加し、これを鎮圧している。同年10月には藤堂平助の口利きで伊東甲子太郎らが入隊する。市中見廻りで多くの尊王攘夷派や倒幕派を摘発し、のちに幕府直属となった。

元治2年(1865年)2月22日、山南敬助が突如新選組を脱走した。この理由は今もって不明だが、原因としては屯所の移転を巡って土方と対立したことによるといわれる。
局中法度において、脱走は死罪と決定されていたため、山南は連れ戻された後、切腹させられた。

この後伊東は副長助勤、次いで参謀に就いて近藤勇、土方歳三に次ぐ新選組のナンバー3となり、江戸での第2次隊士募集、広島への長州訊問使随行、九州への探索など重要な仕事を任された。ただ、伊東は自らの学才を鼻にかけることがあったため、土方からは難色を示されていた。
慶応3年(1867年)3月、伊東やその弟の鈴木三樹三郎、武田観柳斎などは、前年崩御した孝明天皇の墓所を守る御陵衛士に拝命され、新選組を脱退する。
御陵衛士の表面上の目的は「尊攘派の動向を探るため」であったが、実際のところ、伊東は薩摩の西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)と通じており、もはや新選組に未来はないと見切りをつけていた。
武田観柳斎も古株のメンバーで、当初は軍師的ポジションを担っていたが、フランス式軍制度を新選組が導入することに決定すると、武田はもはや嘗てのように重用されることはなくなってしまった。

近藤や土方とて伊東の目論見に気づかぬ訳はなく、表面上は快く送り出したが、副長助勤・三番隊組長の斎藤一にスパイ活動を行わせ、武田観柳斎を粛清した後、伊東を騙して酒宴に招いた。御陵衛士の面々も近藤らの思惑を見抜き、伊東に護衛をつけるよう説得するも、伊東は護衛をつけずに単身近藤らの元へ向かい、さんざん酒を飲まされて、ベロベロに酔っ払ったところを殺害された。
伊東の死体は油小路に打ち捨てられた。伊東が殺害されたことを知った御陵衛士は怒りに燃え、新選組隊士と油小路にて乱闘を繰り広げたが、衆寡敵せずして、御陵衛士は壊滅となった。

隊士名簿[編集]