中内惣右衛門
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中内 惣右衛門(なかのうち そうえもん、生没年不詳)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏の家臣[1]。
略歴[編集]
長宗我部元親に仕え、永禄5年(1562年)に本山茂辰方の吉良城を攻めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで元親の後継者である長宗我部盛親が敗れた際、500の兵を率いて盛親を守り抜いて大坂まで引き揚げた。しかし、逃亡中や大坂滞在中も兵士は次々と逃げ去り、惣右衛門はそんな中でわずか7名と共に最後まで盛親に従ったという。この関ヶ原で長宗我部家は改易となり、盛親も中内も浪人となった[1]。
大坂の役が始まると、中内は旧主・盛親に従って大坂城に入城し、八尾の戦いに敗れて敗走する盛親に従ってまたも最後まで盛親を守ろうとするが、八幡付近で盛親と共に生け捕られた。盛親は徳川方によって斬首となるが、中内はその忠義を賞されて蜂須賀至鎮から仕官を勧められる。しかし、それを拒否して土佐国に戻ると、剃髪して惣入と号し、盛親の菩提を弔ったという[1]。
永禄5年(1562年)の経歴があることから、恐らく70歳は越える高齢だったと思われる。