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キプロス紛争
キプロス紛争 | |
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戦争: キプロス紛争 | |
年月日: 1955年-1975年 または継続中 | |
場所: キプロス島 | |
結果: トルコの勝利 ギリシャの軍事政権が崩壊する。 北キプロス・トルコ共和国が成立する | |
交戦勢力 | |
指揮官 | |
戦力 | |
損害 | |
キプロス紛争 (キプロスふんそう) とは、1955年から開始された紛争。1975年に終了しているとの考え方もある。
概要[編集]
オスマン帝国、イギリス時代[編集]
キプロスは紀元前1600年頃から交易都市として栄えていた。そのため、当時キプロスには多くのギリシャ人が住んでいた。だが、1571年にオスマン帝国に併合されてからは、多くのトルコ人も住む結果となった。1821年には、ギリシャ独立戦争も行われ、当時はキプロスはギリシャ側で参戦した。
1878年からは秘密協定が結ばれ、キプロスはイギリス領となった。キプロスはイギリスに植民地化された。このときから北部にはトルコ人、南部にはギリシャ人とキプロスは分断されたような状況になっていた。そのため、北はトルコ、南はギリシャとの統合を望んでいた。その後、1925年にはキプロスはイギリスの直轄植民地になる。
住民投票と独立[編集]
1950年、ミハイル・ムスコス(マカリオス3世)は、キプロスでギリシャへの併合を問う住民投票を行った結果、95.7%がギリシャへの統合を望むという結果となった。1955年にはロンドンで英希土三国会議も開催されたが、その際トルコでは反ギリシャ人暴動が一部の都市で行われていた。このためトルコとギリシャの間では亀裂がもたらされた。またロンドン会議も決裂した。
1960年8月16日にキプロスは「キプロス共和国」として独立したが、キプロス民族防衛隊、イギリス軍、ギリシャ軍、トルコ軍、国連平和維持軍が駐留する結果となった。
1963年には、マカリオスによりキプロスでトルコ系住民の権利を縮小させることを求めるという憲法修正を行われたが、トルコ政府はこれを拒否し、トルコ系住民は独立を目指し翌年の1964年に内戦状態となる。アメリカ軍はトルコ軍とギリシャ軍の介入を避けるために、そこに介入することとなった。
その後、アメリカの大統領のリンドン・ジョンソンは、ギリシャの首相に対して、トルコ軍の軍事基地やトルコ人自治区を設置する条件でキプロスをギリシャに併合することを提案したが、それをギリシャは拒否した。そのため、国際連合キプロス平和維持軍が派遣されることとなった。
ギリシャへの統一活動の破棄[編集]
1973年には、ギリシャは「独立中道主義」を掲げ、ギリシャへの統一を破棄し、トルコ人と共存することを発表した。1973年から1974年にかけては、トルコとギリシャの関係に摩擦が生じることとなったが、NATOの介入により落ち着いたとされる。
1974年には、キプロスでマカリオスを打倒するためにギリシャ軍事政権は大統領作戦と呼ばれる作戦を開始した。マカリオス死亡のニュースが世界に配信されたが、マカリオスはこれを予測して国外に脱出していたことを表明。イギリスはマカリオスを基地で保護するために、マカリオスをギリシャの大統領であることを認めていることを宣言した。そのため、マカリオスはイギリスへの亡命を要請された。マカリオスはイギリスに亡命した。
軍事介入と停戦[編集]
1974年7月20日には、トルコがキプロスに軍事介入する。トルコ軍により、キプロスは南北に分裂したような状況に陥る。だが、8月16日トルコ軍は軍事活動を停止。停戦となった。
1975年にはキプロストルコ人連邦国家の樹立が宣言される。1983年には北キプロス・トルコ共和国の樹立も宣言されるが、承認したのはトルコだけだった。このような経緯から、キプロスは現在事実上南北に分断されている。