Rest:削除されたジョーク/戸田駅 (日本鉄道)
戸田駅 | |
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とだ Toda | |
◄王子 (10.1km) | |
所在地 | 埼玉県北足立郡上戸田村後谷(現在の埼玉県戸田市上戸田1丁目) |
所属事業者 | 日本鉄道 |
所属路線 | 本線南区(現在の東北本線) |
キロ程 | 16.4 km(上野起点)km |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 1面1線 |
開業年月日 | 1882年(明治15年)9月3日 |
廃止年月日 | 1883年(明治16年)1月23日 |
備考 | 本日は4月1日です。 |
戸田駅(とだえき)とは、かつて埼玉県北足立郡上戸田村(現在の戸田市)にあった日本鉄道本線南区(現在の東北本線)の駅。本路線の終着駅であった。
歴史[編集]
東京から青森市までを結ぶ役目を担った日本鉄道は、東京側から鉄道を敷設していくことと決めた。その第一歩として、まず上野からこの上戸田村後谷までの路線を建設することが決まった。戸田は江戸時代から戸田の渡しが有名であり、交通の要衝であった。そのため、この地に鉄道を建設することには意義があると考えられた。1882年(明治15年)1月4日、上野側から日本鉄道の建設工事が始まった。そのルートは、現在の赤羽駅付近までは現在の京浜東北線と同じであったが、それより北は現在の京浜東北線荒川鉄橋より600mほど西側で荒川を渡り、そのまま北西に進んで上戸田に至るものであった。駅名に関しては、上戸田駅とすることも検討されたが、下戸田村からも徒歩圏内であったことから戸田駅の名称が選ばれた。当時の蒸気機関車では駅間を短くすることが難しかったことから、王子駅以外に途中駅を設置することはなかった。戸田駅の工事は1882年5月13日に着工し、7月28日に完成した。その後、試運転が行われたのち、9月3日に営業運転を開始した。しかし、上戸田村では鉄道への評判は芳しくなかった。当時の上戸田村は農村であり、汽車の煤煙により農作物が育たなくなるのではないかという懸念が発生した。上戸田村は鉄道の撤去を求める署名を集め、1882年12月26日に日本鉄道に提出した。日本鉄道は当初これを黙殺したが、下戸田村からも線路撤去の嘆願が翌1883年(明治16年)1月8日にあったため、日本鉄道はルートを変更することを決定した。1月22日の最終列車を以て本駅は廃駅となり、1月23日に書類上正式に廃止された。また、日本鉄道線自体も一旦運転が中止された。その後、赤羽付近までの線路が荒川の架橋を含めて撤去された。その後改めて、東側の蕨村を経由するルートで線路が引き直され、改めて同年7月28日に上野駅・熊谷駅間が開通した。その後1985年に埼京線が開通するまで100年以上にわたって、戸田の地に鉄道が通ることはなかった。
駅構造[編集]
日本鉄道の戸田駅は、現在の埼京線の戸田駅から東に600mほど離れた場所に存在した。跡地には現在住宅街が広がっており、戸田市文化会館や戸田市役所が至近に位置している。駅は、1面1線の地上駅で、プラットホームと簡易な待合室があるだけであり、駅舎はなかった。駅名標は確認されていない。プラットホームは線路の東側にあったため、西側からの利用客は遠回りを余儀なくされた。駅員は常駐しておらず、列車の発着時のみ駅員が改札のために来ていた。駅の北側には砂利を積み上げただけの簡易な車止めがあった模様である。当時の日本鉄道線は蒸気機関車と客車がそれぞれ1両ずつであったため、ホームの長さは50m弱しかなかった。列車は1日に3往復発着しており、そのうち1往復は王子駅を通過していた。ただし、廃線間近の1883年1月11日以降は王子駅を通過する列車は廃止され、1日2往復に減らされていた。車庫は上野にあったため、上りの最終より下りの最終が早かった。
駅 | 1 | 2 | 3 |
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上野発 | 630 | 1100 | 1700 |
王子発 | 645 | レ | 1715 |
戸田着 | 710 | 1135 | 1740 |
駅 | 1 | 2 | 3 |
---|---|---|---|
戸田発 | 730 | 1158 | 1800 |
王子発 | 745 | レ | 1815 |
上野着 | 810 | 1233 | 1840 |
利用状況[編集]
当駅での降車客数、乗車客数の合計は、1日平均で以下の通りであった。利用者は当地やその近くの地主が多かったという。
- 1882年9月 - 82人
- 1882年10月 - 67人
- 1882年11月 - 54人
- 1882年12月 - 60人
- 1883年1月 - 39人