霊思何皇后
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霊思何皇后(れいしかこうごう、? - 189年)は、後漢の第12代皇帝・霊帝(劉宏)の皇后。通称は何皇后(かこうごう)[1]。父は何真。母は舞陽君で何真の後妻。子は少帝弁。異母兄は何進。異父兄は何苗。妹は張譲の子の妻。
生涯[編集]
荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の出身[1]。身長は7尺1寸(約163センチ)[1]。出自は低かったが、宦官により引き立てられて後宮に入る事になり、宮人・貴人となった末に皇后に立てられる[1]。174年に霊帝の嫡子となる劉弁を生んだ。
霊帝の皇后は宋氏だったが廃されたので、180年に何氏が新たに皇后として立てられる[1]。非常に嫉妬深い女性であり、181年に霊帝に寵愛されていた美人の王栄が劉協を生むと、何皇后はそれに嫉妬して王栄を毒殺した[1]。
189年に霊帝が崩御すると、何進の強力な後押しで劉弁が新帝として即位し、何皇后は皇太后となった[1]。そして政権を掌握するため、霊帝の母である永楽董太后を洛陽から追放して憤死に追い込み[1]、その甥の董重も自殺させた。しかし何進が宦官によって殺害され、その宦官勢力も一掃されて董卓が政権を掌握すると、皇太后は劉弁を廃して弘農王に格下げし、かつて皇太后が毒殺した王栄の子を献帝として擁立し、皇太后は永安宮に追いやられて間もなく董卓の手の者により殺害された[1]。
『献帝記』では董卓が劉弁を廃する際、皇太后が孝行で従順と言う婦徳を一切持ち合わせていない、また永楽董太后の追放などを非難して廃位の理由に挙げている。
『三国志演義』でも王栄殺害が描かれ、さらに嫉妬深く権力欲の塊のような女性として描かれている。董卓が政権を握ると後難を恐れる李儒の勧めもあり、李儒によって劉弁・唐姫と共に殺害されている。