李儒

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

李 儒(り じゅ、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家文優(ぶんゆう)[1]。以前は正史に記録が無いため架空の人物とされていたが、『後漢書』や『資治通鑑』に記録があるため実在の人物と判明している[1]

生涯[編集]

司隷馮翊郡郃陽県の出身。185年に前年に鎮圧した黄巾の乱に功績のあった曹全を称えて建立された『曹全碑』には李儒の出身地と字が刻まれている[1]。『後漢書』によると李儒は少帝弁の郎中令であったが、190年董卓の命令で前年に廃帝にされて弘農王にされていた劉弁に毒薬を強要して殺害している。『後漢紀』では192年に董卓が王允呂布らに殺され、その後に政権を掌握した李傕の時代に侍中に推挙され、さらに劉弁の異母弟である献帝から兄殺しの罪を問われて処刑されかけたが、李傕の取り成しで助命されている。

『曹全碑』の記録からは李儒は董卓ではなく、後漢王朝に最初は仕えた政治家・学者であり、董卓に仕えた時期は不明だが189年に董卓が政権を掌握した際に家臣に取り込まれた可能性がある。

三国志演義』では劉弁殺害の悪事のためか、董卓の娘婿・参謀として関係を強く結び付けられ、狡猾でよく切れる知恵袋として描かれている。何進の要請で董卓が上洛した際にはその名分を持たせるために上奏文を奉らせ、劉弁を廃する際には反対する丁原を董卓が殺害しようとした際には丁原の養子だった呂布の存在を見てその取り込みを図り、董卓が所有する名馬・赤兎馬を与えて籠絡するべきと進言。赤兎馬を惜しむ董卓を「天下を狙うなら馬一匹を惜しんではならない」と董卓に述べた。呂布を寝返らせると丁原を殺させ、劉弁を廃して何皇后と共に永安宮に押し込んで毒酒を飲むように強要するが応じなかったので皇后は楼閣から突き落とし、劉弁は無理矢理毒酒を飲ませ、その妻の唐妃は配下に命じて絞殺させている。反董卓連合軍が起こると董卓に洛陽に残る袁紹一族の皆殺しを進言し、呂布が連合軍に敗れて旗色が悪くなると洛陽を焼き払って長安への遷都を進言。さらに歴代皇帝や皇后の陵墓を暴いたり、富豪の財産を没収したりする策も進言した。また曹操が追撃してきた際には徐栄に策を授けて破っている。長安でも董卓に悪の限りを進言する。董卓が王允の計略である「連環の計」に嵌った際にも貂蝉の正体やその計略などを見抜いて董卓に貂蝉を呂布に与えて懐柔するように求めるが聞き入れられず、李儒は「我々は女の手にかかって皆死ぬのか」と嘆息する。董卓が呂布らに謀殺される際には病気だったために董卓を救う事ができず、董卓没後に連座が適用されて自分の下僕に捕縛されて王允の下に引き出され、長安市中で処刑されている。『吉川三国志』では呂布に殺されているが、連環の計を見抜いていた気配などは描かれていない。

脚注[編集]

  1. a b c 小出『三国志武将事典』P15

参考文献[編集]