陳祗
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陳 祗(ちん し、? - 258年[1])は、中国の三国時代の蜀の政治家。字は奉宗(ほうそう)[1][2]。叔祖父(祖父の弟)は許靖。子は陳粲・陳裕ら。
生涯[編集]
豫州汝南郡の出身[1]。許靖の兄の外孫で、幼児期に孤児になったため許靖に養育された[1]。20歳で名を知られるようになり、選曹郎になる。慎み深く威厳のある容姿から天文、暦、占いに長じていたため、費禕から才能を高く評価され、246年に董允が死去したので侍中となる[1]。さらに尚書令・鎮軍将軍と昇進し、蜀の皇帝である後主から絶大な信任を得た[1]。しかし後主には媚びへつらい、さらに権勢を得た宦官の黄皓と結託して国政を腐敗させた[1]。また、位は姜維より下であったが朝廷での発言力に関しては遥かに凌いでいたという[2]。
陳祗の死後は黄皓が政権を完全に掌握し[3]、蜀の腐敗は加速化した。