関根潤三

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Baseball Pitcher.jpg 関根 潤三 Baseball Batter.jpg
基本情報
国籍日本国旗.png日本
出身地東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:東京都渋谷区
生年月日1926年12月25日(97歳)
没年月日2020年4月9日(満93歳没)
身長
体重
173 cm
65 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手外野手
プロ入り1950年
初出場1950年3月15日
最終出場1965年11月5日
Wikipedia-logo.png関根潤三
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 広島東洋カープ (1970)
  • 読売ジャイアンツ (1975 - 1976)
  • 横浜大洋ホエールズ (1982 - 1984)
  • ヤクルトスワローズ (1987 - 1989)
  • 野球殿堂(日本)
    殿堂表彰者
    選出年2003年
    選出方法競技者表彰

    関根 潤三(せきね じゅんぞう、昭和2年(1927年3月15日 - 令和2年(2020年4月9日)は、東京府(現:東京都)出身のプロ野球選手投手外野手)・コーチ監督解説者。現役時代は近鉄、巨人で活躍。打者で1000本安打・投手で50勝を記録、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した[注 1]。引退後は広島・巨人のコーチ。その後大洋、ヤクルトの監督を歴任した。野球殿堂入り。

    経歴[編集]

    既婚者で長男あり。

    法政大学で41勝を挙げ、戦後東京六大学野球の人気ナンバーワン選手となる。なお、生まれが学生野球の聖地・神宮球場の付近であったことから、関根自身は「あの大歓声を聞きながら育ったんだよ」と後年に述べている。

    昭和25年(1950年)に近鉄に入団する。昭和28年(1953年)から3年連続で2桁勝利を挙げた。そして昭和32年(1957年)に外野手に転向する。オールスターには5度出場し、投手と野手の両部門でファン投票により選出されている。現役の通算成績は投手で65勝94敗、防御率は3.42、打者では打率が2割7分9厘、本塁打59本、打点424であった。

    引退後は大洋ヤクルトスワローズで各3年監督を務め、監督としての通算成績は331勝408敗41分であった。ラジオ、テレビの解説者としても親しまれ、平成15年(2003年)に野球殿堂入りを果たしている。なお、大洋時代の2年目の夏に長嶋茂雄を後任の監督に迎えるための土台作りをしていたが、長島が親しくしていた財界の大物の反対で寸前にして消滅し、関根は「長嶋の露払い」と批判を受けた。しかし関根自身は「長嶋は日本球界の宝だぜ」と言ったという。ヤクルトの監督時代にはドラフト1位で長嶋一茂を指名しているが、関根によると父親のブランドと話題性を考えて投資したのだという。

    令和2年(2020年)4月9日午前9時45分、老衰のため、東京都内の病院死去した。93歳没。葬儀告別式家族葬で行なわれた。

    詳細情報[編集]

    表彰[編集]

    記録[編集]

    節目の記録
    • 1000試合出場:1962年7月14日 ※史上72人目
    その他の記録

    背番号[編集]

    • 19 (1950年 - 1965年)
    • 63 (1970年)
    • 70 (1975年 - 1976年)
    • 71 (1982年 - 1984年)
    • 83 (1987年 - 1989年)

    関連情報[編集]

    出演番組[編集]

    著書[編集]

    出演映画[編集]

    • アモーレの鐘(1981年) - 別荘の管理人 役

    作詞[編集]

    関根は2009年12月に放送された『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)の中で久々に曲を聴いて「若気の至り」と反省していた。

    脚注[編集]

    注釈[編集]

    1. 2015年に大谷翔平が史上二人目の選出となった。

    出典[編集]

    外部リンク[編集]