跡部勝忠
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跡部 勝忠(あとべ かつただ、永正17年(1520年)[1]? - 天正10年(1582年)3月)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。受領名は美作守、後に越中守[2]。官途は九郎右衛門尉[2]。父は跡部泰忠[2](一説に跡部行忠とも)。子に昌忠[2]。
生涯[編集]
武田信玄に仕えるが、武将としてではなく甲斐武田氏の財務を預かる奉行としてであり、信玄の下で勘定奉行の筆頭として活躍している[2]。御料所の代官に対する指示を行なったり、朱印状を発行したり証文を出したりなど、武田家の奉行として辣腕を振るっている[2]。そのため竜朱印状など記録も多く残っている[1]。
永禄11年(1568年)4月21日より美作守を称し、天正8年(1580年)より越中守を称した[1]。武田家では譜代家老衆として同心衆15騎を有した[1]。
天正10年(1582年)3月、織田信長による武田征伐で捕らえられ、甲斐古府中において処刑された[2][1]。