薩摩義士碑

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薩摩義士碑(さつまぎしひ)とは、現在の鹿児島県鹿児島市城山町に存在する義士碑である。

概要[編集]

鹿児島城跡の島北端、城山登山口の一隅にある、山形にひとかたまりとなっている碑群のことである。

江戸時代中期、雄藩の台頭を恐れる江戸幕府は厳しい政策で外様大名を圧迫していた。特に薩摩藩関ヶ原の戦いのときから幕府の仮想敵国として睨まれていたため、幕府は何としても薩摩藩の勢力を削減させたいと考えており、宝暦3年(1753年)に薩摩藩に対して木曽川長良川揖斐川の3川の治水工事を負担するように命じた(宝暦治水工事事件)。しかし企画設計などは全て幕府によって行なわれ、工事の監督なども全て幕臣によって行なわれ、薩摩藩士は工事だけを行なうという労働力として使われるだけの存在であった。

薩摩藩では、家老平田靭負を総奉行に任命して約1000人の藩士を率いさせて工事に当たらせた。当時の工事や技術での治水工事は過酷を極め、さらに洪水などの災害も起こり、また幕府による妨害などもあって、工事は難航した。宝暦5年(1755年)3月に工事は竣工したが、この工事により薩摩藩は藩の年分の予算にあたる40万両を失い、さらに80名余りに及ぶ自決者、病死者を出した。自決者とは、幕府の言いがかりなどで工事作業の責任を問われた薩摩藩士が武士として責任を取るとして自決したものである。しかし平田靭負は自決者を出したことを知られれば幕府から咎められ、また薩摩の藩法でも藩主の命令無き自決は御法度とされていたため公表することもできず、当時の記録では「腰の物にて怪我を致し相果て候」としている。そして平田も幕府による工事の検分、引き渡しが終了すると、薩摩藩に莫大な財政と藩士の犠牲を出したことへの責任を取り、宝暦5年(1755年)5月20日夜に自決している。

これらの尊い犠牲は、後に薩摩藩が大いに幕府を恨む原因のひとつとなり、討幕への原動力となったといわれる。大正9年(1920年11月になって、宝暦治水の犠牲者を慰めるため、この碑が建立された。また城山南西麓には鹿児島県の史跡に認定されている平田靭負屋敷跡が残っており、一帯が平田公園として整備されており、さらに平田の銅像も建立されている。

なお、この宝暦工事における薩摩義士の物語としては、女流作家である杉本苑子の『孤愁の岸』が有名である。

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