董襲
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董 襲(とう しゅう、? - 212年?)は、中国の後漢末期の武将。孫策・孫権の家臣。字は元代(げんだい)[1]。
生涯[編集]
揚州会稽郡余姚県の出身。身長が8尺(約190センチ)あり、人並み外れた武力があった[1]。孫策が会稽郡に入った際、高遷亭で迎えたが、この時に孫策は董襲を見てその立派さを認め、門下賊曹に任命した[1]。当時、山陰では黄龍羅と周勃が数千人の徒党を集めていたが、孫策はその討伐に乗り出し、董襲が自らこの両者を斬った[1]。そのため凱旋すると別部司馬に任命されて数千の兵力を預けられ、後に揚武都尉に昇進する[1]。劉勲や黄祖討伐にも参加した[1]。
孫策の死後は孫権に仕え、彭虎が数万人を集めて反乱を起こすと凌統・歩隲・蒋欽らと共に討伐に当たる[1]。向かうところ敵無しの董襲の前に彭虎はその旗印を見ただけで逃走し、10日ほどで平定され、この功績により威越校尉に任命され、後に偏将軍に昇進する[1]。208年の黄祖討伐では黄祖軍の駆逐艦の船底に潜り込んで碇のロープを切る決死の働きで勝利に貢献した[1]。
曹操軍が濡須を攻めた際、孫権に従って参加したが、暴風雨にあって船が転覆する[1]。側近は董襲に脱出を勧めたが、孫権の命令を受けているのにどうして逃げることができようかと述べて脱出を拒否し、その夜に船が破壊されて死去した[1]。
『三国志演義』では第15回で初登場し、四角な顔と大きな口と姿が描写されている。厳白虎を討ってその首を孫策に献じ、その下で活躍する。第68回の215年の濡須の戦いで船が転覆して溺死している。