上杉斉定
上杉 斉定(うえすぎ なりさだ、天明8年9月4日(1788年10月3日) - 天保10年2月2日(1839年3月16日))は、江戸時代後期の外様大名。出羽国置賜郡米沢藩の第11代藩主。
経歴[編集]
父は上杉勝熙で次男。勝熙は第8代藩主・上杉重定の次男なので、斉定は重定の孫、男系の変わった5代綱憲の来孫であり、第10代藩主の上杉治広は叔父に当たる。母は国(高田氏)。官位は従四位下、侍従、弾正大弼。正室は上杉治広の娘・三姫。側室は浅野斉賢の娘・美代と畠山義周の娘・多喜。弟に勝義。子に斉憲、勝道、板倉勝顕正室、秋月種殷継室、青雲院(池田政和正室)、良(秋元志朝正室)、山崎治正正室ら。
寛政6年(1794年)4月に治広の世子に定められ、享和2年(1802年)3月に喜平次と名乗る。文化5年(1808年)閏7月に元服し、第11代征夷大将軍・徳川家斉の偏諱を受けて斉定と名乗った。文化6年(1809年)4月、治広の長女・三姫と結婚して婿養子になった。文化9年(1812年)9月7日に治広が隠居したため、斉定が家督を継承して第11代藩主に就任した。
藩政の実権は第9代藩主で隠居していた義理の伯父の上杉鷹山が掌握しており、鷹山が亡くなる文政5年(1822年)まで、鷹山の後見を受けた。文政5年には鷹山と治広が相次いで死去したため、隠居がいなくなった米沢藩で斉定の親政が開始されるようになる。鷹山の藩政改革により米沢藩は再建され、斉定の親政開始直後の文政6年(1823年)までに藩の借金は完済された。
天保2年(1831年)3月からは家臣の借上を中止し、50石以下の下級家臣に対しては手当を与えた。同時期の天保の大飢饉では、斉定自ら鷹山に倣って粥を食すなどの手本を示し、鷹山が万一に備えた藩の備蓄米を放出して安価の米を領民に分配し、大坂や新潟・酒田などから米を買い入れて供給したので、米沢藩では一人の餓死者を出すことが無かったという。
天保10年(1839年)2月2日に死去した。享年52。法名は俊徳院殿法印権大僧都誠心。
第12代藩主は長男の斉憲が継ぎ、幕末を迎えた。孫の茂憲は維新時に短期間13代藩主に就いた後、沖縄県令となり沖縄で鷹山時代のような善政を展開した。